2023-08-25

イスラエルを離れるという運命的な決断に対する6種類の反応

この2週間で約50人の人 - 主に友人、そして通りでたまたま会った知人の何人か - にイスラエルを離れるという運命的な決断について話す機会がありました。様々な反応は以下の6種類に大別できることが分かりました。

  • 冷淡: こちらの話は相手の耳を素通りするだけで、良くも悪くも何も反応がない
  • 裁き: 「だから言わんこっちゃない」とばかりに、過去の「過ち」を責め立てる
  • 助言: 自分が実際に体験すらしたことがないことについて頼まれもしない助言をまくし立てる
  • 迷信: (自我の)望みはすべて叶うよとばかりに、根拠のない励ましをする
  • 外交: 耳障りのいい言葉をその場で吐くだけで、その後行動がまったく伴わない
  • 共感: こちらの話の腰を折ることなく、親身になって無言でこちらの話をじっと聞いてくれる
  • これら6種類の反応というのは意識の6つのレベル - あるいはもっと中立的な言葉を使えば、状態 - を反映しているように思われます。上の6つはそれぞれが反映している意識のレベルを低いものから高いものの順番に並べたものです。最初の5つと最後の6つ目との間には本質的な深い溝がありそうです。前者は自我に発しているのに対して、後者は魂に発しているように思われます。この運命的な決断について話しした約50人のうち、共感を持って反応してくれたのは数人もいませんでした。

    最初の5つのいずれかの反応を示した人たちにはある共通点が2つあることにも気づきました。1つは、イスラエルを離れ、ある新天地で引き受けることにした個人的な使命については私の方ではあえて詳細を一切明かさなかったのに、ほとんど条件反射的に行き先はどこかと聞いてくることです。

    まあ、ごく自然の反応と言えないことはありませんが、これは気遣いというよりも、自我のある本能的願望から来ているはずだと結論つける十分な根拠がありそうなのです。それは行き先から始まって、この使命についてできるだけ多くの情報を引き出すことで、無意識にレッテル貼りをしようとすることです。行き先すら明かしていないのに、先入観と偏見に基づいて、行き先を一方的に決めつけてくる人たちも少なくありませんでした。ここで詳細を明かしていたら、根も葉もないどんな噂話をされるかと思うと、ぞっとしました。

    初めて会った人にどこの出身かと聞いて、そこから無意識にレッテル貼りをするのと基本的に同じ意識のレベルではないかと感じました。人間は言葉を獲得した代償として、こうしたレッテル貼りを含む(自我の)思考の牢獄の囚人と化している場合が少なくありません。かくいう私自身、ある苦難を経験することで自我が大きく崩壊するまでは、こうした囚人、それもかなりたちの悪い囚人で、しかもこの事実にすら気づいていませんでした。

    もう1つの共通点は、ほとんど全員がこれまた条件反射的に話の最後に「成功」を願ってくれることです。彼らには悪意がないことはもちろん承知はしていますが、まったく同じ条件反射的反応を何度も何度も繰り返し聞かされると、10人くらいから聞いた時点で、もう勘弁してほしいとすら感じるようになりました。その後、一部の人たちには、「成功」の代わりに「成長」を願ってくれと図々しくもこちらからお願いをしたのですが、これに添えた説明をどれだけの人に理解してもらえたかすら自信がありません。

    説明というのは、とても尊敬しているある霊的師は「人生で最大の試練は成功し続けることである」と教えているが、これは「成功」し続けることで傲慢になってしまい、謙虚さを身につける機会がないままに終わってしまうというものです。これに対して成長は、自我の願望が叶うという意味での「成功」が得られない時ほど大きいというのがこれまでの経験から学んだことです。

    私たちの人生において、自我が望むことは必ずしも手に入るわけではないが、魂が必要なことは必ず巡ってくるという確信はますます強まるばかりです。

2023-08-18

エルサレムを離れ、ある個人的な使命を引き受ける決断

まさかこんな日がやってくるとは自分でも夢にも思っていませんでした。エルサレムを離れるという決断を迫られた日です。なぜこの決断を迫られたか、そして新天地については追々綴っていくつもりです。

エルサレムには、1988年から1993年のヘブライ大学留学時代に5年間、そして2004年に呼んでもらい2020年に自分の自由意志で早期辞職したバルイラン大学ヘブライ語学科での教員時代に16年間、その後日本向けに始め3年間続けたユダヤ式ライフコーチとしての3年間の合計24年間住んだ計算になります。2005年には正式にユダヤ人になり、2006年にはイスラエルに帰化しました。

エルサレムを離れるのは、ある個人的な使命を引き受けるためでもあります。これはこの40年以上なおざりにし、ずっと後ろめたく思ってきたことが果たせる機会にもなりそうです。長年住んだエルサレムを離れるのはつらいものの、今は清々しい思いです。自分を導いてくれている大いなる何かに身を任せようと決めたこともこの清々しさに大きく貢献しているはずです。こう決めてからは人生の流れが突然なめらかになりました。言ってみれば、大いなる何かが後押ししてくれているような感覚です。

新天地が最終的にどこになるにしても、その新天地での生活で色々思い感じることを自分の成長録も兼ねて日本語で発信していくべく、このブログを新しく開設しました。もしよろしければフォローお願いします。