2025-10-31

ユダヤ流有意義な人生 第13章 苦痛と苦難 その2 苦痛と苦難にどう備え、対処するか

私たちは、仮に世界のすべてが善であるというハシディズムの信念に従うとしても、苦痛を当然の状態として受け入れることはなく、普通はそれから解放されるためには手段を選ばないものです。そして苦痛は私たちの折角の信念も砕き、はっきりと考えることができなくなり(つまり苦難を生み出してしまい)、解放のためにどのような助けを求めたらいいのかも判断できなくしてしまいます。本当に有意義な人生を送るためには、苦痛(と苦難)にどう対処すべきかを考えておく必要があります。

世界のすべてが善であるというハシディズムの信念を貫き通すことができれば、たとえ苦痛が収まらなくても、それを人生の挑戦の一部として受け入れることができます。そして理想としては、この経験は霊的に成長する貴重な機会にもなります。

しかしこれは私たちにとって大きな課題でもあります。つまり、苦痛によって衰弱してしまうのか、それとも自分の信念をより深く掘り下げるための触媒としてとらえるのか、という2つの選択肢があるのです。もし苦痛を後者のように捉えることができれば、その経験を通して今まで以上に強く生まれ変わることができることにもなります。

私たちが苦痛の意味を本当に理解できるのは、普通はその経験の前か後だけです。苦痛(と苦難)の最中には、ほとんど何も言えません。だから、「豊作の年」の間に「飢饉の年」に備えておくことが望ましいのです。苦痛(と苦難)を経験することなく人生が進んでいる間に人生を本当に理解しておけば、苦痛が襲ってきた時にうまく対処することができる可能性が高まります。強い根を持つ木は厳しい嵐に耐えることができますが、嵐を目前にして初めて突然根を伸ばすそうとしても、不可能だからです。

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2025-10-24

ユダヤ流有意義な人生 第13章 苦痛と苦難 その1 苦痛と苦難の違い

他のスピリチュアリティーの教えと同じように、ユダヤの教えでも苦痛(pain)と苦難(suffering)は区別されています。前者は病気や事故などによってもたらされ、避けることができない痛みを指すのに対して、後者はこの痛みについて考えてしまうことでもたらされ、避けることができる苦しみを指します。

禅の有名な例え話に「2本の矢」というものがあります。1本目の矢は誰かに射られて自分の体に刺さってしまったものです。この際に感じるものが苦痛であり、避けることができません。これに対して、この苦痛について考えてしまうことが架空の2本目の矢となって思考に刺さり、これによって苦痛をかんがえてしまうことでもたらされるのが苦痛です。この2本目の矢もそれに伴う苦難も、訓練次第でなくすことができます。

この訓練の有名なもののひとつとして、マインドフルネスストレス低減法が挙げられます。ハシディズムの説話には、手術中に麻酔をかけられるを拒み、意思の力で苦難どころか苦痛すら感じないようにしたという賢者が出てくるものがあります。

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2025-10-17

ユダヤ流有意義な人生 第12章 死と服喪 その3 死から何を学ぶべきか

大切な人の魂の昇華を祝い、それに対する自らの悲しみを表現する以外に、喪に服す目的がもうひとつあります。愛する人の死は自分自身の人生を見直し、人生の使命をどのように果たしているかを評価する機会でもあるのです。

ですから、愛する人の魂を偲ぶことは、自分自身の魂を見つめる最も適切な機会でもあるのです。自分の行動を評価することがいかに難しいか、私たちは皆知っています。友人や家族が亡くなるまで、そうする必要に迫られないのが普通です。その時になって初めて、私たちはその人が生前に成し遂げたこと、家族や友人にどう接したか、見知らぬ人をわざわざ助けたことなどを思い出します。しかし残念ながら、愛する人の死を体験するまでは、私たち自身の優先順位を普通は考え直すことがありません。

人間は1人1人が完結した世界であり、亡くなった大切な人の代わりを誰かが務めることはできません。しかしその空白を部分的に埋める助けになる方法はあります。家族や友人を偲んで徳の高い行いをすることは、その人の魂を継続させることになり、その人の生きた記念碑を建てることになるのです。

命の外側の部分、つまり人間の体に囲まれている部分だけを見ていると、死は確かに生の終わりのように思われます。しかし、私たちはこの外側の層の内側を覗いて、人間の魂つまり永遠とのつながりを見ることも学ばなければいけないのです。

つまり私たちの人生においては死にも目的があり、死はより有意義な人生を送るための道具となってくれるのです。しかし結局のところ、死とは遺族にとっては理解不能なものであり、破壊的な経験であることに変わりはありません。ありとあらゆる理性的な説明を聞いても、心はまだ泣いています。そして泣くべきなのです。友人や親族が愛する人のために悲しんでいる時、説明しようとせずに、ただ一緒にいてあげてください。そして慰め、一緒に泣いてあげてください。私たちがどんなにあがいても、生の神秘には私たちには理解できないことが多いからです。

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2025-10-10

ユダヤ流有意義な人生 第12章 死と服喪 その2 遺族にとって死とは何か

死は魂がより高い次元に昇華することを意味するとしても、遺族にとっては辛い経験であることに変わりはありません。しかし死は人生におけるすべての経験と同じように、否定的なものとしてではなく、成長のための機会としてとらえなければいけないのです。

死は強い感情を引き起こすため、それを表現するための決まった方法があって、しかも建設的な方法で癒す必要があります。愛する人が亡くなると、失った悲しみと将来への不安という相反する強い感情が沸き起こるものです。喪に服さないのは野蛮であるものの、だからといって必要以上に長く喪に服していてもいけないという賢者の教えがあります。そうでなければ、人の死はそれ自体として存在し、絶えず私たちを悲しませ、人生の歩みを妨げることになるからです。

しかしなぜ愛する人の死に対する自然な痛みや悲しみを抑えなければならないのでしょうか。悲しみは結局のところ感情であり、感情はコントロールできないのではないでしょうか。悲しみを制限して抑圧したり、ある方向に向かわせようとするのは間違っているのではないでしょうか。

確かに、感情は感情ですが、それを破壊的な方法で経験するか、生産的な方法で経験するかは、私たちが選択できるのです。この場合重要なのは、死をありのままに理解し、その肯定的な要素を称えることです。愛する人の魂がこの世にいた時よりもさらに高い場所に到達し、これからも上昇し続けるということを遺族は理解しなければいけません。この肯定的な認識と悲しみを調和させる行為とが、死をトラウマ的体験からに霊的浄化の体験へと変えてくれるのです。

悲しみの表現を減らすことは不健全で不適切ですが、悲しみに圧倒されてしまうことは、死の本当の意味、すなわちその人の魂がさらにふさわしい棲家を見つけたという事実を遺族が自分勝手に見過ごしてしまうことでもあります。

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2025-10-03

ユダヤ流有意義な人生 第12章 死と服喪 その1 死とは何か

死という言葉は私たちの心に恐怖を与えます。死は理解できないものであると同時に、避けられないものだと思われているからです。死について語ることも、死という言葉を超えてその意味を考えることも、ほとんどできないでいいます。多くの人が生を身体が活動している状態としか考えていないので、この反応は理解できます。しかし私たちは、死とは何なのか、遺族はどのように対応すべきなのか、と自分に問いかけてみなければいけません。

死の謎は魂や人生そのものの謎の一部であり、死を理解することは人生を理解することにほかならないのです。生きている間、身体は魂によって生かされています。しかし魂は肉体の死後はその制約を受けず、これまで通り生き続けるのです。そして人間の本質は魂にあり、地上での責任を果たした後はより高い状態へと昇華していくだけなのです。

ですから、死とは何かという問に答える前に、私たちはまず生とは何かと問わなければいけません。医学的な定義では、生は脳と心臓が機能している状態のことです。しかし人間は生物学的に生きていても、全く生きていないことがあります。呼吸をしたり、歩いたり、話したりすることは、私たちが生と呼ぶものの現れでしかないのです。生の真の源であって、肉体を機能させるエネルギーは魂なのです。そして魂は不滅で、肉体の死によって生の現れが停止しても、魂は形を変えて生き続けるのです。

物質的な利益のみを目的とする人にとって、死はまさに「終わり」です。それはすべてのはかない成果が停止する時です。しかし生はまずは霊的なものであると考えている人にとって、生は決して終わることはないのです。魂はその人が地上で行った善行の無尽蔵のエネルギーを燃料とし、そしてその霊的活力を永続させてくれる子供たちや他の人々を通しても生き続けるのです。

私たちは肉体的生を霊的生つまり真の生と混同しがちです。肉体的生に伴う物質的な装飾に気を取られてしまいます。しかし肉体を離れた魂は、まだこの世に残っている人々が霊的に生きるようにと鼓舞し続けることができるのです。だから徳を積んだ人は肉体的にこの世を去てからの方が深い影響を及ぼすのです。

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