2026-02-27

存在感とエネルギー

オンライン、より具体的にはズームでしか会ったことのない人に、実際に、つまり三次元で対面することになったら、その人から伝わってくるエネルギーにどんな量的・質的違いを感じるか、という体験を、それも数十人規模でする貴重な機会を今週持つことができました。

ある人からの熱い勧めで去年9月に加入した、日本全国に会員を約3万人も擁するオンライン・コミュニティーの全国大会が神戸で開催されるというので、それに参加して来たのです。加入以来オンラインで様々な頻度・密度で知り合うことになった数十人の方たちとも今回始めて対面することになりました。

結論を最初に一言で言うと、オンラインとの差は予想をはるかに超えた圧倒的なものでした。例えて言えば、これまでふすま越しに見ていたろうそくの灯りを、ふすまを取り除いて至近距離で見たような感覚です。オンラインで色々なことができるようになった今だからこそ逆に実際に会うことの重要性が高まっているのでとも痛感させられました。

それではこの圧倒的な差はどこから来るのでしょうか。量的な差がどこから来るのかは想像に難くないでしょう。ズームの画面を通しては切り取られた一部の視覚情報しか入ってきません。参加者が増えれば、それに反比例して、1人当たりの画面の小さくなります。そうなると、窓にかかったカーテンに小さな穴を開けて、そこから外を覗くようなものになります。

そして量的な差よりも本質的な質的な差はとなると、オンラインではほとんど伝わらないものがあるからだと今回あらためで感じました。それは生身の肉体を通してしか伝わらない存在感、そしてこの存在感からくるエネルギーです。自宅のコンピュータで聞く音楽と、それをコンサートホールで生で聞く違いにも例えられるでしょう。

さらに、今回はある疑問に対する答と思われるものを見つけることもできました。それは私の即興のユーモアによって沸き起こる笑いはどういう仕組みになっているのかという問です。この大会でも、多くの参加者に笑ってもらうことになりました。とはいっても、私は別に笑わそうと思っているわけではありません。自分では普通と思っている話し方をすると、笑いを誘発してしまうのです。

この大会の参加者の方々だけでなく、会場となった古巣神戸で触れ合うことになった、ホテルや温泉の従業員を含む色々な方々、合わせておそらく10数人も笑わしてしまうことになりました。(笑)

今回私が見つけた答というのは以下の通りです。我々の本質である魂の自然な状態である喜びが、不安や恐怖といった否定的な雑念という覆いによって隠されていたものが、常識の滑稽さを誇張するような即興のユーモアによって、一時的にせよ取り払われて、それによって生まれた隙間から喜びの光が笑いとなって吹き出すというものです。

皆さんどう思われますか。

PS: つながる

2026-02-20

聴き方の段階

口は1つしかないのに、耳は2つあるのは、話す2倍聴く必要があるからだというユダヤの教えがあります。それなのに、話し方もさることながら、聴き方となると、体系的に習った経験をお持ちの方はごくまれではないでしょうか。ここで言う聴き方とは、他言語学習の一部としての聴解力養成のためのものではありません。

かく言う私自身、どれだけいい加減な聴き方をずっとしてきたかを思い知らされた経験をしたことがあります。それはエルサレムでユダヤ式ライフコーチングを学んだ時です。コーチングとは傾聴力、そしてそれに基づいた質問力であることを身を以て学びました。とは言うものの、傾聴力の方は完成の域からはまだ遠いのが現状です。

聴き方の理想である傾聴とは何かを(再)確認する前に、何が傾聴ではないのか、つまりどういう聴き方をすることで傾聴が妨げられているのかという、聴き方の前段階4つをまずは(再)確認したいと思います。

第1段階は相手の話を途中で遮ることです。相手が話し終わるまで聴かず、その話の途中で自分の話をし始めることです。日本ではこれは比較的少ないかもしれませんが、ユダヤ世界ではこれはとてもよくあることです。ユダヤ的な対話とは、2つの独り言が同時進行しているものというジョークもあるくらいです。相手の話を途中で遮ることが自分の知性の証とみなす風潮もありそうです。

第2段階は相手の話を乗っ取ることです。相手がしている話を、多くはその話題自体を変えて、自分が続けることです。これは日本でもけっこうありますね。例えば、飲み会に同席した人の誰がどんな話を始めても、最後には自分の話に持って行く人が。これは1対1の会話でも当てはまることです。

第3段階は相手から頼まれてもいない助言をしてしまうことです。これは日本を含めて、おそらく世界中で本当によくある聴き方のはずです。一見すると逆説的ながら、その話題について知らなければ知らないほど、それについて助言をする場合が多いという相関関係にも気づきました。

第4段階は相手の話を聴いているようで、実は、相手の話が終わったら自分は何を言おうかと、相手の話の間にずっと考え続けていることです。いわゆるマルチタスキングは一種の神話です。同時に2つ以上のことに本当に集中することはできないように人間の脳はできています。そうなると当然、何を言おうか考え続けていると、見かけは聴いているようでも、相手の話を本当に聴くどころではなくなります。

そして理想の段階である第5段階が傾聴です。上の4つの段階どれでもない聴き方になります。少なくとも理想の状態では、自分の思考を一旦棚上げにして、相手の話だけ集中し、それを聴いてどうするかではなく、それを聴くこと自体が唯一の目的となります。自分の全存在を相手に捧げる聴き方だとも言えるでしょう。この聴き方はほんとうにまれなので、それができるようになれば、対人コミュニケーションにおける貴重な資産にすらなるくらいです。おもしろいことに、これを続けてるうちに、一旦棚上げするつもりでいた思考自体が、少なくとも傾聴の間は(そして往々にしてそれ以外の場合でも)、そもそも浮かんで来なくなります。

PS: つながる

2026-02-13

自我の沈黙と魂の沈黙

沈黙には2種類あることに少し前に気づき、その後観察を続けているうちに、これが確信に変わりました。自我の沈黙と魂の沈黙です。表面上は同じに見えますが、それぞれを生み出しているものは全く異なります。そして今自分が遭遇している相手の沈黙がどちらなのかは、普通であれば直感的にすぐに分かるはずです。

自我の沈黙とは、他人に対するレッテル貼りを言葉にしたり、頼まれていない助言を他人にしたりと、普段は饒舌な自我が、窮地に追い込まれて言葉を失い、沈黙以外に選択肢がなくなった状態です。理性の下に来る沈黙と言うこともできるでしょう。

これに対して、魂の沈黙とは、雄大な自然の前に立ったり、他人の突然の不幸を直接本人から聞かされたりと、言葉の無力さを感じ、魂の「母語」とも言える沈黙に戻った状態です。理性を超越した沈黙と言うこともできるでしょう。

ここで自我の沈黙と呼ぶものの色々な発露にはずっといらいらさせられて来たものですが、自我の本質を学び、自我の束縛から自らを解放することの難しさを身を持って経験するうちに、こうした自我の沈黙に対しても以前より忍耐強くなり、思いやりすら生まれるようになってきました。

ここで魂の沈黙と呼ぶものに初めてはっきりと気づいたのは比較的最近です。2023年9月末にエルサレムを離れる2ヶ月前に、19年間住んだアパートのお隣さんが建物の前に一人沈み込んで座っているのを見ました。お隣さんとはいえ、それまでは挨拶を交わす程度で、深い話をする機会はありませんでした。

何かあったのだろうかと心配して思わず声をかけてみると、末期がんを宣告されたことを話してくれました。ここでどんな言葉をかけても虚しく響くだけだと悟り、彼女をやさしく抱きかかえ、それから沈黙のまましばらく一緒に座っていました。

この沈黙によって、思いがけないことが起こりました。一気に深いつながりが生まれたのです。レッテル貼りや頼まれない助言といった自我の思考の産物である言葉が一掃されことで生まれたこの沈黙によって、魂と霊が垣根なく触れ合うことになったのでしょう。

ちなみに、沈黙についてこれだけ饒舌に語る人は皆さんも見たことがないでしょう。(笑)

PS: つながる

2026-02-06

日本では多くの人が一体何にびくびくしながら話しているのか

言語を切り替えることは、単に記号を切り替えることだけではありません。いくら正しい語を正しい文法で使っても、その言語が使われている社会の規則に従わない使い方は、文法的には正しくても、社会文法的には間違っているということになります。

19年ぶりにまた日本に住むようになって2年ちょっとになります。「~します」と言えばいいように私には思われる場合でも、「~させていただきます」という言うのがこれまで浸透し、日本語の社会文法の一部と化してしまったのは一体いつからなのでしょうか。

日本(語)だけで生活している多くの人にはおそらく気づかず、そうなると、こうした表現もおそらく無意識に自動的に使っているものと想像されます。多言語での生活を日本でも続けている私としては、今自分が話している、あるいは聞いている言語の社会文法を他言語の社会文法と比較してしまうことが第二の点線のようなものになってしまいました。最初は無意識にやっていましたが、今は自分の頭の中で瞬時に行われるこうした比較を自分で意識しながら行うようにもなりました。

「~させていただきます」に代表されるような、一見すると謙虚さを表すはずの表現は、一皮むけば、その奥には恐怖が隠れていることを感じます。だから、こうした「謙虚な」表現を使っている人たちに接すると、一体何にびくびくしながら話しているのだろうと、思わず勝手な心配をしてしまいます。

これについては、この2年間だけでなくそれ以前からもずっと観察を続け、考え続けてきました。2年ちょっと前に日本に移り住む前は仮説だったものが、この2年間で確信に近づくようになりました。

こうした「謙虚さ」とは、他人にどう思われるか、そしてそれによって他人から何か言われてしまうのではないかということに対する漠然とした無意識の恐怖が言葉に表れたもののはずです。実際、こうした「謙虚な」表現に接すると、エネルギーを吸い取られるような思いになってしまいます。

しかし同時に、そんなにびくびくしなくても、もっと自信を持って堂々と話せばいいのではないかと、これまた余計な心配までしてしまいます。こうした話し方をしている人たちの中には、恐怖心の牢獄とでも言うべきこの状態から抜け出したいと思いつつも、抜け出せないでいる人たちも少なくないかもしれません。

他方で、もちろん、こうは感じないまでも、社会文法の一部としてこうした表現を無意識に使い続けている人も多いはずです。でも、問題なのは、こうした表現を使い続けていると、それに言っていれば「染まって」しまうことです。つまり、同じ言葉を繰り返し言ういことで、思考まで書き換えられてしまうのです。

こうした言葉の海で懸命に奮闘している人たちを見ると、つい助け舟を出したくなってしまい、思わず差し出すのが即興のユダヤ流ジョークです。ぎこちない「泳ぎ」になっているところに、遊び心を持ち込むことで、一時的とはいえ、楽な「泳ぎ」に戻ってもらうというものです。この効果は、私自身でも驚くほど、てきめんです。

これに味をしめ(笑)、普段の生活では、全く面識のない人たちも含めて、出会った人、そして場合によってはすれ違っただけの人にも、日本での一種の任務かなとも思って、これを応用しています。そして喜びとは、特別な場合だけの「贅沢品」ではなく、本当の自分の自然な状態であることも、言葉だけでではなく、それに伴うエネルギーを通して伝えられればとも願いつつ、ユーモアの「おすそわけ」を続けさせていただいております。(笑)

PS: つながる