2023-12-22

日々の霊的栄養

体・頭・心にも毎日栄養を摂る必要なように、魂にも毎日栄養を摂る必要を感じるようになったのは「トーラーの内面性」とも呼ばれるハシディズムに6年前に出会い、人生の知恵として学び始めるようになってからです。

約3ヶ月前に日本に移り住むことになるまでの間にハシディズム関係の紙の本は約500冊までに膨れ上がっていました。そしてこのうち約400冊がハバド派ハシディズム関係のものでした。

日本に移り住むことを決めて迷ったのはこの本をどうするかでした。私にとっては日々の霊的栄養の元になっていたからです。日本での置き場や送料を考えると、これら全部を日本に送ることは非現実的で、約80冊を厳選して日本に送ることにし、残りはエルサレムでハバド派ハシディズム関係のロシア語の本の出版・販売を手掛ける会社をやっている親友のラビのところに泣く泣く預けることにしました。

この親友のところに一旦預けて、5回に分けて少しずつ送ってもらった約80冊の最後の便が少し前についに届きました(これらの本の一覧)。約80冊とはいえ、日本にそれも秋田の片田舎にこうした本がヘブライ語・英語・ロシア語・イディッシュ語と実際に並んでいるのを見るのは自分でも不思議な気分です(この投稿の写真はこれらの本の中でも特に大切なものを撮したものです)。そして本を実際に手に取らなくても、その存在だけでも毎日霊的栄養をもらっている感じすらします。

これらの本の中から日本の皆さんが読まれても理解でき、霊的栄養にもなると思われるものに、私自身今回は紙の本としてではなく電子版で済ませることにしたお勧めの本を追加した一覧も別のところに作ってあります(これらの本の一覧)。

両方の一覧でもその最後の方でご紹介しているスマートフォン用アプリケーションの中で、英語を読まれる日本の皆さんにも日々の霊的栄養の元として無料で利用してもらえるのが HayomDaily Torah Study の2つです。前者では Daily Dose が、後者では Hayom Yom が特にお勧めです。いずれもハバド派ハシディズムが教える人生の知恵を日替わりで伝えてくれるものです。

そして最後に、日々の霊的栄養の元として平日に愛用しているのがハシディズム音楽のスマートフォン用アプリケーション Jewish Music です。ハシディズム音楽は魂から出て魂に届くとも言われているように、知性を迂回して直接魂に響いてきます。

2023-12-15

ユダヤ流聖書注解

ユダヤ古典文献の中で日本だけでなく世界中でも一番有名なのはヘブライ語聖書(いわゆる「旧約」聖書)でしょう。特に、最初のモーセ五書(狭義の「トーラー」)は毎週月曜日・木曜日・土曜日(=安息日)の朝にシナゴーグで朗唱されるため、ユダヤ世界では祈祷書の次に親しまれているものです。

当然のことながら、モーセ五書の注解は中世から現代まで山程あり、原文ヘブライ語の一字一句がおそらく可能な限りあらゆる側面から調べられ解説し尽くされているようにすら思われます。

こうした万巻の注釈すべてを知るだけでなく、目を通すことすら少なくとも私には不可能ですが、これまで触れる機会のあったユダヤ流聖書注解の中でも特に感銘と刺激を受け続けているのがハシディズム流聖書注解、より正確にはハバド派ハシディズム流聖書注解です。

今から約6年前にエルサレムで「偶然」触れて深く感動したハバド派ハシディズムの教えをその1年後から約3年間エルサレムの学校で体系的に学ぶまでは、自分が何を知らないでいたのかという自体知らないでいたことに気付いて愕然としたことを今でも覚えています。その聖書注解も自分の無知の無知を知らされることになったひとつです。

ハシディズムの教えはトーラーの内面性とも呼ばれ、ハバド派ハシディズム流聖書注解を特徴づけるのも、字面の意味だけからは分からない隠された意味です。特に人間心理についての本当に深い洞察に溢れ、単に知的好奇心を満足させてくれるだけでなく、人生の知恵として普段の生活、特に思考と行動とにまで肯定的な影響を与えてくれるようなものです。

残念ながら、「ハシディズム」というだけで先入観から勝手なレッテル貼りをして食わず嫌いの人がユダヤ世界においても本当に多いこともその後身をもって知りました。かくいう私自身そうした1人でした。

私がエルサレムでハバド派ハシディズムの教え、特にその心理学を習った先生たちの先生であり、現代を代表するハバド派ラビの1人でもある Rabbi Yitzchak Ginsburgh は、ハシディズムが説く知恵はユダヤ人にだけでなく非ユダヤ人にも広める機が熟したことを力説して、この使命を果たすように自分の弟子たちにも勧めています。私が日本に移り住んで始めることにしたこの「ユダヤ流人生の知恵」もこの呼びかけに答えたものでもあります。ただし、いわゆる布教ではありません。闇を光に変えるという試みの一種というだけです。

この試みのひとつとしてこの師によるモーセ五書注解を1月から毎週1回ご紹介していくことにしました。お申し込みを含む詳細は講座のウェブページをご覧ください。

最後に、この師ではなく、ハシディズムの創始者とされるバアル・シェム・トヴの聖書注解の例を改めて簡単にご紹介します。これは少し前にもご紹介したことがあります。創世記に出てくるノアの方舟と洪水の話はおそらく皆さんも知っているはずです。この話はどう理解されていますか。そしてこの話から何を学べると思いますか。

バアル・シェム・トヴは以下のように教えています。方舟を意味するヘブライ語の単語 תיבה には文字という意味もあります。人生で遭遇する挑戦という「洪水」も「文字」つまりトーラーの教えを学ぶことで乗り切っていくことができるという教えです。これがトーラーの内面性です。

PS: つながる

2023-12-08

ユダヤ流肯定主義

皆さんは「ユダヤ」という言葉から何を連想されますか。世界各地に離散したユダヤ民族の辛い過去を連想し、この辛い過去からは否定的な思考・発言・行動をさらに連想される方もおられるかもしれません。

もちろんどんな社会集団にも否定的な人たちもいれば、肯定的な人たちもいます。しかし様々な社会集団を比較すれば、全体としての否定度・肯定度の違いが浮かび上がってくるはずです。

エルサレムの専門の学校で体系的に学び、今回日本に移り住むに当たって日本に携えてきて、日本にぜひ広めたいと思っているハシディズムの教えを特徴づけるのは究極の肯定主義です。

この教え自体もさることながら、それを体現した人たちに何人も出会い、その何人かとは今で交流を続けることで、その後ユダヤ流肯定主義、より正確にはハシディズム流肯定主義を私自身の普段の生活にも取り込むようにしています。

この肯定主義が具体的にどういう思考・発言・行動となって表れるのかを単なる頭だけの知識としてでなく人生の知恵として学んでもらえるように日本に皆さんにご紹介すべく、2024年1月10日水曜日から2024年2日28日水曜日までの全8回毎週水曜日の午後9時から10時半までオンライン(ズーム)で、その名も「ユダヤ流肯定主義」という講座を開講することにしました。

もっと具体的には以下が扱う予定のテーマの一部です。

  • 肯定性に焦点を当てる
  • 他人の良い所だけを見る
  • 他人を肯定的に解釈する
  • 他人の良い所を引き出す
  • 肯定性を選択する
  • 肯定的に考える
  • 否定性とは戦わない
  • 闇を蹴散らす代わりに光を当てる
  • 挫折か踏み台か
  • 障害か機会か

普段、特に否定思考の傾向があり、それによって結局は自分自身を一番苦しめていると自覚するようななっている方にはぜひ受講してもらいたいと思っています。定員に限りがありますので、興味がおありの方はあまり考えすぎずにぜひ行動に移してみてください。オンライン講座はまだエルサレムに住んでいる時に約2年間続けた毎回の授業は即興のユーモアと笑いが絶えません。この「伝統」は今回のこの講座でも続けます。

PS: 詳細・お申し込み

2023-11-24

まずは行動

イスラエルを離れて約19年ぶりに日本で暮らすようになって気になることのひとつが、イスラエルと比べて日本では考えすぎるあまり、あるいは考えるだけで実際の行動を起こさない人・場合が多いのではないかということです。もちろん、この印象が間違っているに越したことはないのですが、残念ながら、少なくとも今のところはこれが間違った印象であるということを裏付けるような証拠には遭遇していません。

シナイ山で啓示を受ける際の言葉(出エジプト記24章7節)に発するユダヤ教の教えに、まずは行動し、それから(説明を)聞く(そして理解する) - נעשה ונשמע - というものがあります。頭だけの知識ではなく、実技あるいは人生の知恵の場合、まずは実際に行動を起こすことで直接体験をしてみないことには、本当には理解できないことの方が多いからです。

身近な例として、例えば水泳を考えてみてください。いくら泳ぎ方のメカニズムを説明してもらい、頭だけで理解しようとしても、実際に泳がなければ、泳げるようにはなりません。他には、言葉を話す能力を身につける場合、実際に話す必要があります。

中々行動を起こせない人の頭の中ではどういう考えが渦巻き、第1歩を踏み留まらせているのでしょうか。日本の場合だと、完璧主義と謙譲が代表的な理由として挙げられるはずです。

完璧主義と言うと美徳のように思われる方も少なくないかもしれませんが、実は問題の方が多い特質です。完璧には切りがないからです。何かを始めるための準備が完璧に整うのを待っていたら、何も始めることはできません。不完全でもいいので、それなりの準備が整ったら、見切り発車する方がはるかに賢明です。

日本式の謙譲も問題があります。日本式の自己卑下は本当の意味での謙譲ではなく、自意識過剰の裏返しです。ユダヤ教が教える本当の謙譲というのは、他の人が同じことをやったら自分よりも上手くできるはずだけれでも、このことを自覚した上で敢えて自分はやってみるというものです。

そして日本に限らず、人間であればおそらく誰でも抱えているはずの最大の理由のひとつは失敗の恐怖です。失敗を恐れるあまり、行動のための最初の1歩が踏み出せず、失敗について考えれば考えるほど、その恐怖は増していくのです。おそらくこれは皆さんにも経験があるはずです。これへの対処法としては、失敗の恐怖に抵抗するのを止め、それをありのままに受け入れつつ行動を起こすことです。実際に行動を起こし始めてみれば、失敗の恐怖も薄れていくはずです。

これら3つの理由に共通することは思考の牢獄に囚われているということです。一言で言えば、考え過ぎということですね。考え過ぎを止める確実な方法は行動を起こすことそのものです。

と、ここまで書き終わった直後に、エルサレムでとてもお世話になっていたハバド派のラビの1人から連絡があり、ある大きな目的のためのある助けに協力してくれないなという依頼が偶然にもありました。かなりの難題なので最初は断りたい誘惑にかられましたが、今自分で書いたことを試す貴重な機会だと思って、引き受けることにしました。

PS: つながる

2023-11-17

相手に口を噤むべき時

政治と宗教の話はやめておいた方が無難だとよく言われます。このいずれか、あるいは両方の話が議論に発展し、さらには口汚いの罵り合いにまで墜落し、最後には感情的になって絶交にまで至った例というは、周りで目撃されたり、実際に自分で体験したり、ということが皆さんにもあるはずです。

チャットやソーシャルメディアといったオンラインでのやり取りではこれが加速してしまいます。一時的にかっとなって出た言葉が即座に送れてしまうからです。そしてこれは普通相手側も同じことです。

そもそも政治と宗教の話はこうなる危険性が高いのは、自分が信奉する主義・主張とはまったく異なる、場合によっては正反対な意見や教義を信奉する誰かから批判された場合、一種の人身攻撃と自我が判断してしまうからです。

自我は本来幻想にすぎないにもかかわらず、こうなると自分の生存が脅かされたと錯覚して、生存をかけて相手に反撃することになるのです。多くの場合は無意識であるはずの最終目的は相手を論破することです。

脅かされたと感じる自我は、個人自我である場合もあれば、集団自我である場合もあります。そして自分が所属すると考えている集団の自我が脅かされたと感じれば、個人自我が脅かされたと感じる場合よりも、普通人はより凶暴・残虐になるものです。

しかし実際問題として、こうした感情的な罵り合いでどちらかが相手に説得されるということはまずありません。それどころか関係はこじれるだけです。

恥ずかしながら、数年前にアルコールを完全に止めるまでは、私自身こういうことをけっこう頻繁にやらかしていました。そしてアルコールを口にすると、さらにひどくなっていました。

離婚を契機に突然アルコールを飲みたくなくなり止めてから、少しずつ確実に目が覚めていくようになると、この点でも少しずつ確実に変化が起こるようになりました。

自分が正しいということを相手に思い知らせようとするよりも、心の平安を保つ方がはるかに大切だと分かったのです。とはいうものの、相手を論争に引きずり込んだり、相手に論争に引きずり込まれたりすることが完全になくなったわけではありません。ただ、昔と違って、そうなっても、自分がやってしまったことに対する問題意識ははっきりと持てるようにはなりました。

それではそもそもこのような論争を始める代わりにどうするのがいいのでしょうか。一言で言えば、相手に口を噤み、必要とあれば比喩的な意味で、あるいは実際に物理的に歩き去るのです。

これが特に有効、あるいは唯一の方法だと痛感するのは、自分が盲信している主義・主張とは異なり、したがって攻撃しようとしてくるこちら側の主義・主張を相手側が知らないだけでなく、それを謙虚に聞こうとする代わりに、頭ごなしに否定するような場合です。

ある問題が起こって、両方の側の当事者の言い分が正反対な場合、まずは双方の言い分を聞き、さらにはその問題の専門家でもある第三者の分析も確認するということを、ある色々な偶然が重なって、少し前に人生で初めてやりことになりました。

この特定の問題の場合、これまで自分が盲信し、今でも社会の多数派が盲信し続けていることが集団洗脳の結果だということにはっきりと気づいた時には自分でも本当に驚きました。そしてさらには、集団洗脳を受けた多数は自分たちが何を知らないのか自体を知らず、洗脳を受けているということにも気づいていない、ということにも気づくことになりました。

もちろん、かく言う私自身、もし自分が知らないということ自体を知らないでいることはまだまだたくさんあるはずだと思うと、謙虚にならなければと身が引き締まる思いです。

最後にまとめますと、自分の無知の無知を自覚しておらず、自分は盲信していないと盲信している相手に議論を挑み、論破しようとするのは時間の無駄です。自分が正しいことをこうした人たちに証明することと、心の平安を保つことと、どちらが大切でしょうか。答は明らかなはずです。そうです。相手に口を噤むのです。

PS: つながる

2023-11-10

集団自我

自我には、ただ自我と言った場合に指す個人自我だけでなく、おそらくあまり知られていない集団自我というものもあります。皆さんは聞かれたことがありますでしょうか。

一言で言えば、集団自我とは社会集団そして社会制度が持つ自我のことです。そして社会集団には国家や会社から地域社会やクラブまでその規模と種類は様々です。社会制度には例えば言語まで含まれます。そうです、言語にまで集団自我があるのです。

個人自我と集団自我の共通の特徴は、本来は幻想にすぎない自分を守ることです。そのためには自分が他とは別個な存在であるという幻想を補強し続ける必要があります。

分かりやすい例として国家レベルの社会を考えてみましょう。例えば、日本社会を念頭に置いてみてください。広義の文化がその集団自我の規則体系です。この規則は明文化されているわけではなく、社会の規範や常識の名の元に、まずは家族、続いて地域社会というミクロ社会、そして学校教育や社内教育を通して、子供の頃から無意識のまま少しずつ集団洗脳を受けていきます。

国家レベルの社会に限らず、どの社会集団であっても、私自身の経験からすると、その構成員のおそらく7割か8割程度は自らが所属する(あるいは所属させられている)社会集団の集団自我が命じることに無意識のまま従って生きています。もっと一般的な言葉で言い換えれば、その社会集団が敷いたレールの上を何の疑問も感じることなく走り続けるのです。このようにしてその集団自我の大切な「運動員」になり、新しい構成員に集団洗脳をかける道具と化していきます。

幸か不幸か、私は中学校時代に通った中学校の集団自我の圧力に抵抗して一種の村八分を受けるという原体験を持ったおかげで、それ以降の人生では、今思えば集団自我だと分かるものには本能的に拒絶反応を催すようになり、所属した(あるいは所属させられた)社会集団の多くをしばらくすると自分の意志で去るということを繰り返してきました。その一番最近の例は大学という社会集団とその集団自我からおさらばするために大学を早期辞職したことです。

最初に書いたことをここで繰り返し、さらなる説明を加えてみます。集団自我の目的はその社会集団の存続を確保することです。それを脅かす構成員あるいは他の社会集団に対しては、容赦なく攻撃を加えてきます。こうした攻撃は村八分といった社会的制裁が普通ですが、それでも脅威が排除できなければ、物理的攻撃にまで出てきます。国家間あるいは民族間の争いも、究極的にはそれぞれの集団自我の衝突と捉えることができます。

所属する(あるいは所属させられている)社会集団の集団自我が命じることに従って生き続けることには、波風が立たない人生が送れるだとか、出世競争に勝てるだとかといった利点があります。しかしこうした人生が果たして魂の成長という人生の本当の目的を叶えることにつながるかというと、はなはだ疑問です。

集団自我に反旗を翻すことは現実的には難しいにしても、それから一歩身を引いて、魂の成長につながるような人生に少しずつでも移行していくことは可能です。そのための助けも兼ねてこの「ユダヤ流人生の知恵」という私塾を立ち上げた次第でもあります。

PS: つながる

2023-11-03

私塾「ユダヤ流人生の知恵」のお知らせ

大いなる何かに導かれて、帰化までして長期間住んだイスラエルを2023年9月末に一旦離れ、生まれ育った日本、それも日本で人生最初の18年間を過ごした秋田県由利本荘市で1人暮らしを続ける母と42年半ぶりに一緒に暮らし支えることになりました。

長期間住むことになりそうな日本では、エルサレムで体系的に学んだハシディズムという「トーラーの内面性」の深遠な教えに基づいたユダヤ流人生の知恵を通して、幻想の自分から目覚め、本当の自分を取り戻すためのオンラインの私塾を主宰しています。

私自身そうだったように、日本の皆さんもこれによって意識のレベルと高め、有意義な人生を作ってもらえればと心から願っています。

* 写真は由利本荘市の中で今住んでいる地区で早朝に撮ったものです。

PS: つながる

2023-10-27

新天地のお知らせ

2023年10月7日以降イスラエルが戦争状態になる直前の9月末に偶然にもイスラエルを一旦離れ、長期間の予定で移り住むことになった新天地の具体的な地名を皆さんにも明かす時が来ました。結論を最初に言えば、魂がこの肉体を借りた今回の人生の旅での最初の「駅」となる日本の秋田県由利本荘市(周辺の由利郡7町村との合併以前の当時は本荘市)です。もっと一般的な表現を使えば、生まれ育った場所ということになります。

以下のような転居を経て、42年半振りに住むことになります。

  • 1963年3月~1981年3月: 秋田県本荘市
  • 1981年4月~1985年3月: 大阪府箕面市
  • 1985年4月~1987年7月: 京都府京都市
  • 1987年8月~1987年9月: 秋田県本荘市
  • 1987年10月~1993年7月: イスラエル・エルサレム
  • 1993年8月: 秋田県本荘市
  • 1993年9月~1994年3月: 東京都武蔵野市
  • 1994年4月~1998年3月: 大阪府豊中市
  • 1998年4月~2004年7月: 兵庫県神戸市
  • 2004年8月~2023年9月: イスラエル・エルサレム

エルサレムには5年間の留学時代そして帰化以降を合わせて24年間住んだ計算になります。まさか、エルサレムを離れることになろうとは自分でも夢にも思いませんでした。

この新天地を明かせなかったのは、日本のビザ取得までは観光客として入国しているからという事情があったからです。このビザも昨日無事に取得し、在留カードも発行してもらいました。これで晴れて日本でも仕事ができることになりました。

エルサレムを一旦離れて、日本に移り住むことにした理由を一言で言えば、大いなる何かに導かれてということになります。努力は惜しまないけれども、最終的には人生が送ってくる合図に聞き従い、抵抗することなくその流れに身を任せるということです。これは今回初めて、それも身をもって経験しました。流れに身を任せると決めてからは、自分でも不思議なくらい、ストレスもなく滑らかな人生になりました。

2018年5月に経験した離婚が契機となって、ある覚醒を経験しました。その結果、大学全般、特に言語研究に対する興味を完全に失い、終身在職権までもらっていたイスラエルの大学での仕事を定年を待たずに辞めたのが2020年9月末のことです。

これに先立つ2年間は最後の有給休暇をもらい、離婚の危機が始まった時にエルサレムで受けて人生が変わったユダヤ式ライフコーチングを大学早期辞職後の新しい仕事にしようと、研修を受けました。その後満を持して、大学を正式に辞めた2020年10月に日本在住日本語話者向けにオンラインでのユダヤ式ライフコーチングを始めました。

結局、この自営業だけでは物価が日本の約2倍のイスラエルで生計を立てることは叶わず、今年1月からはイスラエルのAI関係の会社で言語屋としての会社勤めの仕事をずっと探してみましたが、これも見つからず、最後の手段として思いついたのが、日本で1人暮らしをする母と同居するというものでした。

当初は、生活費をどうやって節約するかという自分勝手なことばかり考えていましたが、42年半振りに母と同居することになるのであれば、支えたいと思うようになりました。これが個人的な「使命」です。今振り返れば、イスラエルで仕事が見つからなかったのは、この「使命」を引き受ける以外選択肢を残さないという「大いなる何か」の導きだったと思えてなりません。

せっかく日本に住むことになったので、エルサレムで体系的に学び、その後実践も心がけてきたハバド派ハシディズムの教えを「ユダヤ流人生の知恵」として広めたいと思っています。物理的に日本にいるのといないのとでは大きな違いがあるはずです。ユダヤ流人生の知恵を皆さんにご紹介する様々な講座を主に、これ以外にも新生ユダヤ式ライフコーチングをもと思って、以前から計画を温めています。この詳細は来週ここでお知らせする予定です。

* 写真は由利本荘市の中で今住んでいる地区で早朝に撮ったものです。

PS: つながる

2023-10-20

人生で一番大切な借り物

皆さんは自分の物と誰かからの借り物とではどちらを大切に扱いますか。どちらも大切にするという方でも、どちらをより大切に扱うか、これまでのご自分の態度と行動を振り返ってみてください。

私はどちらも大切に扱うようにしていますが、どちらをより大切にするかと問われれば、借り物の方をより大切に扱っています。

残念ながら、借り物だからといって粗末に扱う人たちをたくさん見てきました。具体的な例は挙げませんが、皆さんもこのような例は何度も目にされてきたのではないでしょうか。

自分の物も借り物も大切にする人でも、そして借り物は大切にするけれども自分の物は大切にしないという人でも、これまで自分の物だと思っていたものが実は借り物であったらと知ったら、しかもそれが人生で一番大切な借り物だと知ったら、態度と行動を変えるでしょうか。皆さんはどうでしょうか。

この借り物とは、多くの人が自分の物だと思い込んでいる「自分の」体です。実はこれは借り物なのです。借り手は本当の自分である魂です。それが証拠に、魂が肉体を去れば、肉体は死んでしまいます。

皮肉にも、自分の物も借り物も大切にする場合でも、体が自分の物だと思いこんでいる人の多くが、残念ながら、この人生で一番大切な借り物を粗末に扱っているのをイスラエルでも日本でもずっと目にしてきました。

例えばマイモニデスといったユダヤ賢者が体の健康とその維持の大切さを力説しているにもかかわらず、伝統的なユダヤ文化では体の健康維持のために毎日投資するという習慣があまりありません。日本はこの点はるかにましなはずですが、それでも中高年となると、こうした投資を続けている人というのは少数派になってしまうことも体験的に知っています。

問と答からなる以下のようなユダヤジョークを考案して、エルサレムに住んでいた頃はたまに披露していました。日本だと通じるかどうか分かりませんが、イスラエルで話すといつも苦笑いされていました。あまりにも当たっているからです。

  • 問: イスラエルで一番人気のあるスポーツは何か。
  • 答: 食べることと話すこと。理想の組み合わせは食べながら話すこと。どちらも口の運動。

この人生で一番大切な借り物の維持のために口の運動以外は何もしていない人を見ると、それが親しい友人の場合見るに見かねて、エルサレムに住んでいる頃はこうした何人かにフィットネスコーチングを無料ボランティアとして伝授したことが何度もあります。

このテーマに関しては、10代終わりの頃から色々と本を読んだり、講習会を受けたりして、試行錯誤の実践も続けています。こうしてこれまでにたどり着いた結論とも言える、今私が毎日実践している運動は以下の通りです。

  • 体幹力を含む筋力の維持(と強化)のための自重筋力トレーニング: 平日の毎朝朝食前の約15分間
  • 持久力の維持(と強化)のためのランニング: 平日の毎朝朝食前の約20分間
  • 柔軟性の維持(と強化)のためのヨガ: 平日の毎晩就寝前の約15分間

これらのうちランニングとヨガは講習会を受けました。前者は ChiRunning を、後者は Iyengar Yoga をそれぞれ実践しています。

こういう話をすると、こんな時間を毎日取ることができないという反応が多くの人から返ってきます。でも毎日1時間もからないで、確実な「配当」が得られる投資は他にはないはずです。「配当」とは、特に筋肉を失って自分の体重が維持できなくなって転倒し寝たきりになり、寝たきりになるとさらに筋肉を失うという悪循環を避けられるか、遅らせられるというものです。

それに、こうした「配当」とは無関係に、人生で一番大切な借り物はできるだけ元の状態を維持し、貸し手に返すように務めるのが最低限の義務だとも私はずっと思って、上のような平日の運動を続けています。そしてこれは貸し手と借り物に対して感謝を示す方法だとも思っています。

2023-10-13

自我の思考の24時間生放送

特別な訓練を受けていない多くの人にとって、考えるという行為の多くは、例えば食べるといった意図的な行為よりも、呼吸するとか消化するといった自動的な行為により近いことは、少し考えてみればすぐに気づくことです。

思考の数をどうやって数えるのかという問題はさておき、私たちには1日に数万の思考が私たちの自由意思とは無関係に沸き起こると言われています。

こうした思考は自我に発するもので、私たちが経験する現実に対しての解釈という形を取ります。例えば、ヘブライ語を学んでいるということを誰かが話したとします。すると、なぜこの人がヘブライ語を学ぶのかといった憶測が頭の中でうごめき始めるはずです。

他の例を挙げれば、誰かが約束の時間になっても現れないとします。極端な場合、もうこの相手とは絶交してやるという思考とかも湧いてくるはずです。でも、実際にはこの遅れは何らかの不可避の事故のせいだったことが後になって分かることもあります。

前者の例ではそれほどでもありませんが、後者の例ではこうした自分の自由意志とは無関係に沸き起こる思考のせいで自分を苦しめる結果になっています。

これらの例はごく一部であって、私たちは自我の思考を24時間生放送している放送局を自分の中に設置しているようなものです。このせいで、経験する現実に解釈を挟まずにありのままに受け入れることができないようになっているのです。

人によっては、こうした自我の思考をわざわざ言葉に出して実況放送してくれる人もいます。例えば喫茶店での雑談とかは、こうした実況放送を相互に聞かせているというのが普通でしょう。

繰り返しますと、普通こうした自我の思考の24時間生放送は自分の自由意志とは行われるため、自分の自由意志で止めることもできません。呼吸や消化を自分の自由意志で止めることができないのと同じです。

しかし学びと訓練次第ではこれを止める、あるいは少なくとも減らすことができるようになり、自我の思考の生放送の間に内的静寂という隙間ができることにもなります。そして一旦この隙間の間隔を直接体験すれば、それからは自分の自由意志でその長さと頻度を増していくこともできるになります。

この内的静寂は思考停止ではありません。思考の燃料漏れ停止というのがより正確です。こうした燃料漏れがなくなることで、本当に考えなければいけない時に、思考の燃料を有効活用ができるようになるのです。

そして自我の思考の24時間生放送から内的静寂に移行していくことによって得れれる最大の恩恵は、否定的解釈によって自分自身に加えてきた苦難、つまり自我の思考の牢獄から自分を解放できることでしょう。

2023-10-06

集団洗脳

自分が集団洗脳をずっと受け続けてきたことを初めて自覚するようになったのは、それまでずっと聴いていたある国のある放送局が閉鎖されて、仕方なくその国の別の放送局を聴くようになってからです。今から約1年半前のことです。全世界に大きな影響を与えるある地政学的な問題についての両局の報道が両極端だったので、最初は混乱しました。どちらを信じていいか分からなかったからです。

この疑問に対する自分なりの答を探すべく、信頼できると思われた独立系のジャーナリストや地政学の専門家を芋づる式に何十人も見つけ、その後彼らの意見・分析を毎日結構な時間をかけて読んだり聴いたりしているうちに、それまで聴いてきたある国の閉鎖された放送局、そしてそれと基本的に同じ報道内容である西側のマスコミの報道は、公言できないある特定の集団の利害を擁護・推進するためのプロパガンダであると確信するに至りました。

西側のマスコミばかりを確認して、それを鵜呑みにしている人たちが例えばイスラエルでも大半です。例えば上述のある地政学的な問題についてこうした西側のマスコミが報道する内容(つまりプロパガンダ)とは真逆な私自身の意見をそういう連中に話しても、信じてもらえず、悪者扱いされるだけなので、沈黙するようになりました。

そしてかつての自分が集団洗脳を受け続けていたことに気づいていなかったように、集団洗脳を受け続けている人たちは普通誰も自分たちが集団洗脳を受け続けていることに気づいていないことにも気づくようになりました。そして集団洗脳はマスコミによるプロパガンダだけでなく、もっと巧妙な方法でも行われ続けていることにも気づくようになりました。

その最たるものが、自分が生まれ育った社会集団の慣習を学校教育を通して、そしてそこに暮らし続けることで周りから受ける影響を通して受け続ける集団洗脳です。いわゆる集団自我のこうした集団洗脳にはマスコミ以上に気づかないのが普通でしょう。自分たちでも知らない間に色々なことが刷り込まれ、その集団自我に都合がいいような発言も行動も無意識にするように大半の人はなってしまっています。

このことに自分で気づくことは至難の技です。プラトンの洞窟の寓話にあるように、一生洞窟の中でしか暮らしたことがない人たちに、ある偶然から洞窟の外の世界を見てしまった人が何を言っても信じてもらえないのと同じことです。

今回イスラエルを離れる際に気づくようになった、イスラエル社会(そしておそらく日本社会も含めた世界中の多くの社会)での集団洗脳の例としては、人生の目的は「成功」することであるという強迫観念、そして誰か・何かについてできる限り知らなければいけないという強迫観念です。

いわゆる「成功」というのは自我の視点であって、魂の視点からすれば、人生の目的は霊的成長です。そして誰か・何かについてできる限り知らなければいけないとするのも自我に発していると思われ、それは肉体という境界線で仕切られた個人という幻想の分離を維持していくためだと思われます。

そして社会による集団洗脳の中でも最も厄介なのは集団そして個人のアイデンティティーに関わるものです。つまり自分たちとは誰なのかについての集団洗脳です。集団としてのアイデンティティーの大きく貢献しているのがいわゆる国語と国史の教育です。これらを通して培われる国民意識は国を運営していくためには必要なものであることは認めるものの、基本的には集団自我の幻想にすぎません。

特定の国の公用語の教育を通してなされるこうした集団洗脳に他に、言語そのものは集団洗脳以外に個人レベルでの本当に厄介な洗脳という役割も担っています。自分は誰なのかという個人のアイデンティティーについての自我の幻想を植え付けるという役割です。

子供が言語を習得していく過程で自我という幻想が決定的なものになる段階が2つあります。第1は、親をはじめとして周りから呼ばれる名前が自分を指していることに気づき、その名前が自分だと思いこむようになった時です。第2は、「私」という言葉を覚えた時です。これによって自我、特にその思考の牢獄での一生が始まることになるのです。

もちろん、言語にはコミュニケーションの手段という大切な「光」の部分はありますが、自我という幻想を与え補強するという「闇」の部分があることも忘れてはいけないと思います。残念ながら、言語学では前者しか扱っていません。最近出版された「言語の本質」という新刊を読んでも、題名とは裏腹に著者たちは言語の本質の一面、つまり「光」の部分しか捉えておらず、「闇」の部分についてはおそらく自覚すらないのではないかという印象を受けました。

最後に、ここまで読んでいただいた皆さんの中には、それでは一体どうやってこうした集団自我そして個人自我の幻想に気づき、その支配から抜け出すことができるのだろうと思われた方もいるかもしれません。そのためのいくつかの方法の中で、私自身が直接体験して成果があったユダヤ教の非二元論としてのハシディズムの教えを「ユダヤ流人生の知恵」と称してこれから少しつづ日本の皆さんにも伝えていくことを人生第2のキャリアにしたいと思っています。

「ユダヤ教」、「非二元論」、「ハシディズム」と聞かれて、色々な先入観が浮かんで来るかもしれません。自我の思考によるレッテル貼りという先入観はできれば一先ず脇に置いて、皆さんにお伝えしていくことを内容本位に受け止めてもらえれば、私としてはありがたいです。

2023-09-29

英雄の旅

今回は19年間住んだエルサレムを一昨日水曜日に離れ、ある個人的な使命を果たすための新天地となるある国に昨日予定通り無事着きました。この国での最初の中継地では、色々と応援してくれている人たち5人と会い、今は第2の中継地に来ています。ここにあるハバド派シナゴーグで新天地で最初となる安息日を過ごす予定です。

この使命の具体的な内容と具体的な場所はある理由から現時点ではまだ公言できないだけでなく、この理由自体まだ公言できません。でも、近い将来にある関門が無事通過できたら、この使命の具体的な内容についてこの場でもお話します。

魂が肉体を借りてこの世にやって来ることを仮にマクロ使命と呼べば、このマクロ使命を果たすために、人生を通していくつかのミクロ使命とでも呼べるものを普通体験するようになっています。

私がここでミクロ使命と読んだものを、アメリカの比較神話学者 Joseph Campbell は「英雄の旅」と呼んでいます。元々古今東西の神話を比較分析して得られた説明モデルに後代の人がこう命名したものです。ライフコーチングの枠組としても用いられることがよくあります。

今回私を選んだミクロ使命もこの「英雄の旅」という枠組の第1段階にピッタリ合います。いわば「ぬるま湯」に浸かった生活をしていた「英雄」の人生に大きな転機が訪れます。外的な状況が突然大きく変わり、これまで浸かっていた「ぬるま湯」を抜け出して「旅」に出る以外選択肢が残されなくなるのです。だから、今回の私もこのミクロ使命を選んだというよりも、それに選ばれたというのがよりしっくり来ます。

今回のミクロ使命だけでなく、人生全体というマクロ使命も、その究極の目的は魂の成長です。いわゆる「成功」は基本的には無関係です。ただし、「成功」してはいけないというわけではなく、それに気を取られるばかりに、本来の目的を忘れてしまわないことが大切です。

「英雄の旅」を皆さんがもっと具体的に想像してもらえるように、例えば「指輪物語」とか「ハリー・ポッター」を思い出してみてください。どちらのその第1段階では「英雄の旅」に出ることを余儀なくされています。そして「英雄の旅」ではその目的はそう簡単に達成できるわけではなく、途中には幾多の挑戦が待ち受けています。

私が今回の「英雄の旅」に出る前に、エルサレムでお世話になっていたあるハバド派のラビの1人からある貴重な助言を得ました。それは、今回のミクロ使命を含めたマクロ使命全体に私を送り出したのは誰か自分に問いかけてみることです。この問に対する答はほどなく見つかりました。今後遭遇するであろう挑戦という「関門」を1つ1つ通過していく際に、この答を自分に言い聞かせようと思っています。

2023-09-22

今を生き、「真空保存」する

イスラエルを離れるのが来週水曜日と、エルサレムでの生活の終わりが近づくにつれて、自分の中である大きな変化が起こるようになりました。これまで色々と学び、少なくとも頭では理解できたものの、実生活には中々応用できないでいたことです。それは今を生きるということです。

とても不思議なそして素晴らしい感覚です。英語では人間を指すのに human being という表現がありますが、ほとんどの人間は human being というよりも human doing になってしまっています。つまり、私たちの本質である存在が行動によって乗っ取られてしまったようなものです。

例えて言えば、行動とは海の表面の波のようなものであって、水面下にある静寂が本質としての存在になるでしょう。つまり今を生きるというのは、海の表面の波から海の水面下の静寂に意識が移行することも意味するはずです。少なくとも私自身はこういう意識になっています。

今を生きるということをうまく表す漢字があります。それは「念」という漢字です。これを分解すると、「心今にあり」となります。

人生で初めて今を生き始めると、特に自分の時間が限られたものである時こそ他人に与えられる最も貴重なものは、自分の時間と並んで自分の存在であることも痛感します。自分の存在を誰かに与えるとは、例えばその相手を傾聴することも意味します。

こうした意識の状態で、周囲を見渡してみると、ほとんどの人たちは今を生きていないことにあらためて気づきます。これを妨げているのは、自分の本質が行動ではなく存在であるということをすっかり忘れてしまっているせいだけでなく、思考の牢獄に囚われてしまっているからであることにもあらためて気づきます。

今を生きられないでいるという狭い文脈での思考の牢獄というのは少なくとも2つ挙げられます。1つは過去の後悔と将来への不安に囚われて今を生きられないでいるということで、もう1つは思考が自動操縦モードになっていて今を生きられないでいるということです。

思考が自動操縦モードになっているというのは、例えば、今回私がイスラエルを離れてある新天地での使命を引き受けることにしたという話をこちらですると、ほとんど皆が最後に「成功」を条件反射的に願ってくれます。もちろん、善意しかないことは分かります。成功し続けることは謙虚さを身につける機会を失うといういう意味で人生最大の挑戦であるという教えを、理解してくれそうだと思った一部の人たちには紹介しました。その後で、「成功」よりも成長を願ってほしいと告げても、実際に成長を願ってくれた後で、最後にまた条件反射的に「成功」を願ってくれる場合がよくありました。

本題の今を生きるという感覚は言葉だけでは十分に伝えることができない本当に不思議な感覚です。今を生きていてると、素晴らしい感情も瞬間瞬間に沸き起こってきます。ということで、今を生きるだけでなく、今を「真空保存」することも今試み続けています。

この試みは、ちょうど離婚騒動が始まった(そして結局避けることができないことが分かった)2017年12月から2018年2月までクライアントとしてグループで受けたユダヤ式ライフコーチングの期間中に無意識に初めてやったことです。それはある曲を何度も何度も繰り返し聴くことです。そしてしばらく経ってからこの曲を聴き直すと、当時の感情が鮮明に蘇ってくるのです。この曲は今でも時々聴き直して、初心を思い出しては自分を鼓舞しています。

そして今また同じ試みを別の曲でやっています。私がエルサレムで習った東欧ユダヤ民俗ダンスの先生があるワークショップで踊っている時のビデオをMP3に変換して何度も何度も聴き直しています。このダンスで使われているのはクレズメル音楽の有名な曲です。ご参考までに、このダンスのビデオとMP3への変換無料オンラインサービスへのリンクをここに張っておきます。

2023-09-15

自家発電所

この5年間ハシディズムを学び続けてきたことの最大の成果のひとつは、いつの間にか自分の中に一種の自家発電所が出来ていたことです。この自家発電所のお陰で、否定的エネルギーに侵されにくくなりました。

どの社会にも何らかの否定的エネルギーがうごめいています。例えば、イスラエル社会と日本社会で私が感じる否定的エネルギーはそれぞれ自己中心主義と無神経、他人の目に対する恐怖と憂鬱です。

前回以前は日本に行くたびに、この否定的エネルギーにすぐに侵され、イスラエルに戻る頃までには自分まで憂鬱になってしまっているいましたが、前回年末年始に日本に行った時は、「無傷」でイスラエルに戻ってくることができ、自分でも感動したことを覚えています。

私たちの本来の状態、つまり魂の本質は喜びです。喜びを覆い隠している闇を取り除くだけで元の喜びの状態に戻れるのです。曇っている時でも、太陽は常に光り輝いているのと同じことです。

したがって、ハシディズムを学び続けることで出来た自家発電所がやっていることも、喜びを生み出すのではなく、喜びを覆い隠そうとする雲を蹴散らし、近づかせないようにすることです。こうした雲の最たるものは様々な否定思考です。

ハシディズムの教えは究極の肯定思考です。なぜかというと、その根底にはすべては善であるという信念があるからです。こうした信念と喜びの間には親和性があります。すべてが善であることを覆い隠しているものの最たるものは私たちの視野の狭さです。五感と知性をいくら駆使しても、私たちに見えている現実はごく僅かです。

これまでとは違って、お陰で前回日本に行った際に自分の中にできていたこの自家発電所の存在に気づいたことは、イスラエルを離れ、ある新天地で使命を引き受けることを決断する際にも大きな後押しになりました。この自家発電所が出来ていなかったら、おそらく躊躇していたはずです。

ただ、この自家発電所も燃料を補給し、維持し続ける必要があります。こうした補給燃料の中でも一番大切なのはハシディズムの日々の学びです。この5年間で築き上げた数百冊のハシディズムの個人蔵書のうち、今回の使命に持っていけるのは約10分の1の数十冊だけです。選りすぐったこの数十冊の中でも個人的に特に大切なのが、この投稿の写真に載せた5冊です。いずれもヘブライ語原文にロシア語対訳がついたものです。新天地でもこれらの本を毎日学び続けます。

PS: 以下はこうした選りすぐりの数十冊の一覧へのリンクです。

2023-09-08

大いなる何かに導かれて

当時は最悪の選択にしか思えなかった、エルサレムを離れることも意味するある選択だけはどうしても避けたいと思って、今思い返せば悪あがきにしか思えないようなことを続けていました。何をやってもうまく行きませんでした。

これが根本的に変わったのは、流れに逆う代わり、流れに身を任せようと思ってからです。今からちょうど1ヶ月前のことです。それ以来すべてが不思議なほど滑らかです。

何かに屈したという思いはありません。大いなる何かに導かれているということを深く感じます。これに伴って、人生でこれまで1度も経験したこともないような心の静寂も以来感じています。

長年住み、まさか離れることになるとは夢にも思わなかったエルサレムを離れるのは感情的にはとてもつらいですが、もっと深いレベルでは、自分の成長のためそして社会貢献のための大きな可能も感じます。

今のこの感じを例えて言うならば、これまで独立した存在とばかり信じ込まされ、自分でも信じ切っていた波が、自分は大きな海の一部であると悟ったようなものです。独立した存在としての波は、個人自我と集団自我を含む自我の幻想にすぎません。

この幻想から目を覚まし、大いなる何かに身を任せるとは、自我のちっぽけな力 (force) に頼ってあくせくする代わりに、宇宙の叡智という壮大な力 (power) に後押ししてもらっていることも意味するはずです。すべてが信じられないほど滑らかに流れていくように感じるのも無理のないことでしょう。

2023-09-01

エルサレムでの残された時間が限りあるものであることを意識するようになって悟るようになったこと

エルサレムでの残された時間と反比例して、意識の感度が加速度的に高まっていっているのを感じます。例えて言えば、白黒テレビから突然カラーテレビに切り替わったかのように、これまでおぼろげにしか見えていなかったことが突然鮮明に見えるようになったような感じでしょうか。

その最たるものは、自分にとって誰がそして何が本当に大切なのか、そして自分は誰にとって大切とされているのかをはっきりと悟ったことです。自分が大切だと思われていない人に、そして自分にとってどうでもいいことに時間を費やす余裕はないのに対して、突然あるいは改めて大切であることが分かった人たちに対しては時間と存在という今の自分にとっては最も高価なものを可能な限り惜しみなく与えるようにしています。

さらには、自分にとって大切かどうかということとは別に、これまだ交流のあった人たちも含めて色々な人たちの「素顔」、つまり意識の状態がこれまた鮮明に見えるようになりました。これに呼応するかのように、一気に(さらに)親しくなった人たちがいる一方で、一気に疎遠になった人たちもいます。

個々の「素顔」の違いを超えて多くの人に共通して見られる人類の集団的病とでも言うべきものにも短期間で繰り返し何度も何度も遭遇しました。言語を門番とする自我の思考の牢獄という集団的病です。本体道具であるべき言語に多くの人が使われてしまっている状態です。もっと具体的に言えば、言語を通して、つまり言語によるレッテル貼りを通してした現実に接することができなくなっているのです。

残念ながら、私自身こうした自我の思考の牢獄から完全に解放されたとは言えませんが、言語を介さずに現実を直接体験することができていると感じる瞬間が少しずつ増えてきていたのが、今回の件で加速しました。

この5年間で主にハシディズムを通して学んだユダヤ流人生の知恵を活かし、生きる又とない成長の機会の始まりになっているのがまさに今です。エルサレムを離れた新天地でのこの先何年かもこうした機会がおそらくずっと続くことになるでしょう。

2023-08-25

イスラエルを離れるという運命的な決断に対する6種類の反応

この2週間で約50人の人 - 主に友人、そして通りでたまたま会った知人の何人か - にイスラエルを離れるという運命的な決断について話す機会がありました。様々な反応は以下の6種類に大別できることが分かりました。

  • 冷淡: こちらの話は相手の耳を素通りするだけで、良くも悪くも何も反応がない
  • 裁き: 「だから言わんこっちゃない」とばかりに、過去の「過ち」を責め立てる
  • 助言: 自分が実際に体験すらしたことがないことについて頼まれもしない助言をまくし立てる
  • 迷信: (自我の)望みはすべて叶うよとばかりに、根拠のない励ましをする
  • 外交: 耳障りのいい言葉をその場で吐くだけで、その後行動がまったく伴わない
  • 共感: こちらの話の腰を折ることなく、親身になって無言でこちらの話をじっと聞いてくれる
  • これら6種類の反応というのは意識の6つのレベル - あるいはもっと中立的な言葉を使えば、状態 - を反映しているように思われます。上の6つはそれぞれが反映している意識のレベルを低いものから高いものの順番に並べたものです。最初の5つと最後の6つ目との間には本質的な深い溝がありそうです。前者は自我に発しているのに対して、後者は魂に発しているように思われます。この運命的な決断について話しした約50人のうち、共感を持って反応してくれたのは数人もいませんでした。

    最初の5つのいずれかの反応を示した人たちにはある共通点が2つあることにも気づきました。1つは、イスラエルを離れ、ある新天地で引き受けることにした個人的な使命については私の方ではあえて詳細を一切明かさなかったのに、ほとんど条件反射的に行き先はどこかと聞いてくることです。

    まあ、ごく自然の反応と言えないことはありませんが、これは気遣いというよりも、自我のある本能的願望から来ているはずだと結論つける十分な根拠がありそうなのです。それは行き先から始まって、この使命についてできるだけ多くの情報を引き出すことで、無意識にレッテル貼りをしようとすることです。行き先すら明かしていないのに、先入観と偏見に基づいて、行き先を一方的に決めつけてくる人たちも少なくありませんでした。ここで詳細を明かしていたら、根も葉もないどんな噂話をされるかと思うと、ぞっとしました。

    初めて会った人にどこの出身かと聞いて、そこから無意識にレッテル貼りをするのと基本的に同じ意識のレベルではないかと感じました。人間は言葉を獲得した代償として、こうしたレッテル貼りを含む(自我の)思考の牢獄の囚人と化している場合が少なくありません。かくいう私自身、ある苦難を経験することで自我が大きく崩壊するまでは、こうした囚人、それもかなりたちの悪い囚人で、しかもこの事実にすら気づいていませんでした。

    もう1つの共通点は、ほとんど全員がこれまた条件反射的に話の最後に「成功」を願ってくれることです。彼らには悪意がないことはもちろん承知はしていますが、まったく同じ条件反射的反応を何度も何度も繰り返し聞かされると、10人くらいから聞いた時点で、もう勘弁してほしいとすら感じるようになりました。その後、一部の人たちには、「成功」の代わりに「成長」を願ってくれと図々しくもこちらからお願いをしたのですが、これに添えた説明をどれだけの人に理解してもらえたかすら自信がありません。

    説明というのは、とても尊敬しているある霊的師は「人生で最大の試練は成功し続けることである」と教えているが、これは「成功」し続けることで傲慢になってしまい、謙虚さを身につける機会がないままに終わってしまうというものです。これに対して成長は、自我の願望が叶うという意味での「成功」が得られない時ほど大きいというのがこれまでの経験から学んだことです。

    私たちの人生において、自我が望むことは必ずしも手に入るわけではないが、魂が必要なことは必ず巡ってくるという確信はますます強まるばかりです。

2023-08-18

エルサレムを離れ、ある個人的な使命を引き受ける決断

まさかこんな日がやってくるとは自分でも夢にも思っていませんでした。エルサレムを離れるという決断を迫られた日です。なぜこの決断を迫られたか、そして新天地については追々綴っていくつもりです。

エルサレムには、1988年から1993年のヘブライ大学留学時代に5年間、そして2004年に呼んでもらい2020年に自分の自由意志で早期辞職したバルイラン大学ヘブライ語学科での教員時代に16年間、その後日本向けに始め3年間続けたユダヤ式ライフコーチとしての3年間の合計24年間住んだ計算になります。2005年には正式にユダヤ人になり、2006年にはイスラエルに帰化しました。

エルサレムを離れるのは、ある個人的な使命を引き受けるためでもあります。これはこの40年以上なおざりにし、ずっと後ろめたく思ってきたことが果たせる機会にもなりそうです。長年住んだエルサレムを離れるのはつらいものの、今は清々しい思いです。自分を導いてくれている大いなる何かに身を任せようと決めたこともこの清々しさに大きく貢献しているはずです。こう決めてからは人生の流れが突然なめらかになりました。言ってみれば、大いなる何かが後押ししてくれているような感覚です。

新天地が最終的にどこになるにしても、その新天地での生活で色々思い感じることを自分の成長録も兼ねて日本語で発信していくべく、このブログを新しく開設しました。もしよろしければフォローお願いします。