2024-03-29

今を生きることの大切さ

おそらく例えば歴史教育や言語教育のせいで、普通私たちは過去と未来は存在すると思っています。しかし実際にはどちらも実体としては存在せず、私たちの中の思考としてしか存在しません。この意味で、つまり実体験として過去を生きた人は誰もいません。

実体として存在する唯一の時間は今であり、今とは永遠でもあります。もし今を生きなければ、本当の意味で生きているということにもなりません。

ところが実際はというと、多くの人は今を生きていません。その最大の理由は過去を後悔したり、将来を心配したりししてしまうことで、心が今にあらずという状態になってしまうからです。実体験できる唯一の時間である今が思考によっていわば乗っ取られた形になってしまっているということです。

そしてこれはおそらく他の動物には見られない人間だけの現象だと想像されます。これは人間が言語を獲得した一種の重い代償のひとつです。こう考えると、言語を使っているようで、実際には言語に使われてしまっているということにもなります。

ただし、今を生きるということを例えばマインドフルネス瞑想とかを通して学んだことがない人でも、今を生きることになる時があります。例えば、何かに熱中して無心になった時です。ここでいう無心とは、今を直接体験することを妨げる雑念がなくなった状態です。

私自身の例を挙げれば、思考の波が止むことに後で気づくことになったのは、まだエルサレムに住んでいる時に、世界でも数少ない専門家から習った東欧ユダヤ民俗ダンスを習ってからです。踊っていると思考の波がぱったりと止むのです。

その後はマインドフルネス瞑想を続けたり、学びを続けたりすることで、踊っていない普通の時でも今を生きているということを感じられる時が少しずつ増えていくようになりました。

今を生きることが大切なのは、今を生きる代わりに過去や未来を考えてばかりいると、最初に書いたように、人生を本当に生きないままに一生を過ごしてしまうことにもなってしまうからです。

さらには、今を生き始めるようになると、これまで自分だと思っていたものが思考による幻想にすぎなかったことも体感できるようになり、これによって本当の自分を取り戻す第1歩にもなることができるのです。

例えて言えば、太陽を覆い隠している雲が幻想の自分で、太陽が本当の自分です。今を生きる代わりに過去や未来という幻想に中にいることはこの雲に一種の栄養をやり続けていることになり、太陽のせっかくの輝きが覆い隠されたままになってしまうのです。太陽の輝きとは喜びです。喜びとは特別の状態なのではなく、本当の自分の本来あるべき自然な状態なのです。

PS: つながる

2024-03-22

偽の謙遜と真の謙遜

19年ぶりに日本に移り住むとすぐに気づき、今でも強い違和感を持ち続けていることは、日本ではおそらく美徳とみなされているはずの日本式謙遜です。

例えば、誰かを褒めると、それが本当に心から出ている言葉であっても、多くの場合相手から最初に返ってくる言葉は「いえいえ」です。否定の言葉を2回繰り返していますが、否定の否定、つまり肯定ではなく、否定の強調です。

でも本当に否定しているのでしょうか。相手が自分を否定したのを受けて、褒めた方がその否定を肯定したとしましょう。そうすると、その相手はむっとするはずです。「いえいえ」という否定の強調を否定してほしいという思いが心の奥に強くあるはずです。

こう考えると、こうした日本式謙遜というのはかなり不健全で倒錯した偽の謙遜であると言えないこともありません。謙遜の反対に当たる傲慢が美徳ではないことは誰にでもすぐに分かるはずですが、本来は美徳であるはずの謙遜が偽りの衣をまとっていた場合、それでも美徳と呼べるのかとなると、大きな疑問です。

それでは真の謙遜とは何なのでしょうか。このヒントになるのが、ユダヤ史上最も謙虚な人物とされているモーセです。聖書の出エジプト記に描かれている彼の言動から浮かび上がる謙遜は日本式謙遜とは全く異なるものです。

それは、もし同じことを他の人たちにやらせたら、自分よりもはるかにうまくやれるはずだということを肝に銘じながらも、自らを否定することなく行動を起こすということです。

それでは、誰かから心から褒められた場合、「いえいえ」という偽の謙遜の反応の代わりにどう反応するのが真の謙遜を反映することになるのでしょうか。一番簡単なのは、「どうもありがとう」と言うことだと思って、モーセを思い出しながら、自分でもそう言うように心がけています。

PS: つながる

2024-03-15

自我の思考という牢獄の門番としての言語

本来であれば単一で不可分であるはずの世界を「分節」し、レッテル貼りをすることが言語の根本的な機能のひとつであると言えるでしょう。これは言語の本質の闇の部分とでも言えるかも知れません。

この「分節」の仕方は言語によって異なりますが、世界が「分節」され、それによってレッテル貼りがなされるという点ではすべて共通です。例えば、本来無数の色が含まれているはずの虹には何色あるのかということは言語・文化によって異なっています。

皮肉にも、ある言語を自在に操れるようになればなるほど、その言語によるレッテル貼りは自動化・無意識化されることになります。これによって、言語を使いこなしているようで、実際には言語に使われているということになります。

レッテル貼りは自分自身、人、物だけに限らず、人生で経験する様々な経験にも当てはまります。例えば、誰かに何かを言われたりされたりした時に、普通であれば、それに自動的に価値判断を下し、無意識に何らかの思考が湧いてきます。例えば、怒りです。人生経験という「物語」へのレッテル貼りと言うこともできるでしょう。

これは他の動物にはおそらくない人間だけの特徴なはずです。人間が言語という道具を獲得した大きな代償とも言えるはずです。人間に長い間飼われて、ある意味で人間化したペットにはあるのかもしれませんが、例えば、否定的な思考をずっと抱き続けた結果、ノイローゼになるとか胃潰瘍になるとかというのは人間だけに起こるのではないでしょうか。

この意味で、言語には自我の思考という牢獄の門番という役割もあると言えるでしょう。かつての私自身も含めて、多くの人はこうした牢獄に囚われているだけでなく、その事実自体にも気づいていません。数年前に自分が思考の牢獄の囚人であることに初めて気づいてから、同僚の言語学者たちを注意深く観察し続けていたところ、思考の牢獄でも同僚だったことが分かりました。;-)

しかしこの牢獄にいることは終身刑ではありません。そこから自らを解放することも可能です。そのための第1歩は自分がそこに囚われているということを自覚することです。

元「囚人」として、自分だけでなく周りを苦しめ続けてきた者としては、こうした思考の牢獄に囚われて、苦しんでいる人たちが自らを解放する手助けになりたいと思って、大学を早期辞職してエルサレムで始めたのがユダヤ式ライフコーチングでした。その後日本に移り住むことになって始めた「ユダヤ流人生の知恵」という私塾も同じ意図を持つものです。

PS: つながる

2024-03-08

人が誰かにあげることができる最高の贈り物(のひとつ)

皆さんはご自身が、誕生日とかといった特別な日だけではなく普段の生活で、誰かにあげることができる最高の贈り物は何だと思われますか。

全く思いも寄らない文脈でこのひとつだと思われるものに気づかされることになりました。24年間住んだエルサレムを2023年9月末に去るまでの大半となる19年間を過ごしたアパートの隣の建物に住む高齢の女性が1人寂しそうに建物の前のベンチに座っているのを見た時でした。

何かと思って、ベンチの隣に座って、どうしたのかと聞いたところ、末期ガンを宣告されたと言って、すすり泣き始めたのです。言葉の無力さを痛感しました。励まそうと思ってどんな言葉をかけても、本人にはおそらく虚しく響くだけだろうと思ったのです。

直感的にしたのは、彼女を優しく抱きしめてあげることでした。すすり泣きと共に伝わってくる体のわずかな震えを受け止めるだけという状態を無言のまましばらく続けていました。

ここで突然悟りました。人が誰かにあげることができる最高の贈り物(のひとつ)とは存在、つまり一緒にいてあげることであると。ここに言葉はいらないだけでなく、場合によっては言葉は邪魔にすらなります。

19年間もずっと隣に住んでいて、たまに通りですれ違った時に簡単な挨拶を交わすだけの仲だったのが、ベンチでの無言のこの数分間で、最も深い所、つまり魂と魂がつながったように感じました。

以来、エルサレムで残された2ヶ月間はこのお隣さんのところに行っては、ただ一緒にいてあげるということを毎週3回続けています。今でも日本から毎週1回電話をかけて話をしていますが、同じ空間を共有するのとは雲泥の差があります。

その後2023年10月からは42年半ぶりに母と同居することになりました。こちらに移り住んで始めた「ユダヤ流人生の知恵」という私塾だけで十分な収入源を確保できる段階にはまだ至っていないので、年金生活の母を経済的にも援助できる段階にもまだ至っていません。

今できるのは一緒にいるということだけです。そして私にとっては最高の贈り物と思えるこれをこれからも毎日届け続けていきます。

PS: つながる

2024-03-01

ユダヤ流肯定主義の実践ための「十戒」

去年の9月末に日本に一旦移り住んで立ち上げることになった私塾の1つである「ユダヤ流人生の知恵」の枠組で、今年の1月から始めた講座のうちその名もズバリ「ユダヤ流人生の知恵」で、最初の科目として取り上げた「ユダヤ流肯定主義」8回の授業が今週で無事に終わりました。

まとめを兼ねてこの肯定主義を実践するために心がけるべきこととして今週行った最終回の授業で紹介した「十戒」を以下に箇条書きで皆さんとも共有します。

0 はじめに

  • ユダヤ流人生の知恵は頭で理解するだけで終わりにするためにあるのではなく、行動に移して実践するためにある。

1 情報源を選ぶ

  • 否定的なことを伝えている情報源ばかりを受動的に消費するのではなく、肯定的なことを伝えている情報源も肯定的に探してチェックする。

2 皮肉をやめる

  • 皮肉は自分・他人・周りの世界が肯定的に変わることに対する信念を弱めてしまうことに問題がある。

3 良い知らせを他人と共有する

  • その日にあった悪いことについて誰かに愚痴をこぼす代わりに、その日にあった良いことについてどんなことでもいいので誰かに話してみるように少しずつ自分を変えていく。

4 自分の頭の中で否定的なことばかり呟くのをやめる

  • そのためには、否定的なことが頭の中に浮かんだら、それに抵抗する代わりに、肯定的なことを思い浮かべるようにしてみる。

5 他人を心から褒める習慣を身につける

  • 他人から褒められて嫌な人はいない。
  • ただし、心から褒める。
  • そして褒められる方も素直に喜び感謝する。

6 今に焦点を当てる

  • 過去の否定的な経験という色眼鏡で今を曇らせる代わりに、今は今で新たに見る。
  • 特に対人関係において大切である。

7 肯定的な人とつながり交流する

  • 日頃どんな人たちとつながり交流しているかは大きな影響を与える。

8 自分の好きなことをする

  • 何かで成功するためには得意なだけでは十分ではなく、それを好きになる必要がある。
  • そのためにも、状況が許す限り、自分の好きなことをするようにする。
  • 人生で本当に喜びと達成感を感じるためには、自分の好きなことが仕事になった時である。

9 自分のことだけを考えるのをやめる

  • 自分にばかり焦点を当てることが否定性と苦しみの根源である。
  • 自分のことばかり考えていても幸せになることはない。

10 他人のためになることを考える

  • 自分の助けを必要としている人は常に現れる。
  • これによって外的状況によって左右されない人生を築くことができるようになる。
  • これによってさらに人生に思いがけない肯定的変化が起こることもある。

PS: つながる