2024-05-31

誰かについて知ることと誰かを知ることの本質的な違い

日本に移り住んでから感じるのは、国や文化は違っても、おそらく世界中の多くの人の間に存在するであろうある共通点です。残念ながら、それは否定的な共通点です。しかしそれを克服することも可能です。

この否定的な共通点とは、誰かについて知れば知るほど、その人を知ることにつながるという思い込みです。誰かについて知るとは、端的にはその人の経歴、つまり人生体験の軌跡を知ることです。

しかし実際には人生体験とはその人が体験したことであって、その人そのものではありません。つまり経験には経験者がいるということであり、経験の目的語は経験者ではありえません。そしてこの経験者こそがその人そのものなのです。

この両者を混同して、誰かについて知れば知るほど、皮肉にもその人の本質からはどんどん遠のいてことになります。なぜかと言えば、この本質とは基本的に無関係なレッテル貼りをどんどんしていくことで、一種の虚像を自分の頭の中に作り出していくことになるからです。そして最も厄介なレッテル貼りとは自分に対するレッテル貼りです。残念ながら、この幻想に気づいている人はどの国でも多くありません。

少し前にこの落とし穴に気づくようになってからは、そこに陥らないようにするための自己防衛策として個人的に実践し続けていることは、誰か新しい人に初めて会った時には、その人については敢えて何も聞かずに、その人のエネルギーを感じるようにすることです。

これはその人に対する無関心を意味するものではありません。実際はその逆です。その人の本質を知るための邪魔になることが多いことからは敢えて自らを遠ざけておくということです。今後の成長次第では、このような自己防御策が不要になる日がやってくることもあるかもしれません。

この最後の点にも関係するある忘れられない衝撃的な体験を比較的最近したことがあります。通算で24年間住んだエルサレムを昨年9月末に離れる2日前に同じくエルサレムに住むある高名なラビに相談に行った時のことです。このラビは人の魂が読めると噂されていて、彼のたった数分間の助言を求めるために、世界中から色々な人たちが彼の元を訪れます。会いに来た人たちについて質問は一切なく、相手の目をじっと見つめるだけで、その相手が求めている人生の助言をしてくれるのです。私自身、このラビにお会いして、目を見つめられた時に、瞬時に本質を見抜かれたと感じ、その直後に彼から受けた人生の貴重な助言は魂と深く共鳴する内容でした。

PS: つながる

2024-05-24

問題解決のために必須の第1歩

人生で遭遇する様々な問題を含む、おそらくどんな問題であっても、その解決のために必須と思われる共通の第1歩は何だと皆さんは思われますか。

それは自分が問題を抱えているということを自覚することです。周りからその問題を指摘されるだけでは不十分なのです。問題を自覚することで、それを解決するための重い腰を上げることにつながります。つまり問題解決のために必須の第1歩ということになります。

それでは問題を自覚するのはいつなのでしょうか。それは残念ながら多くの場合、その問題が自分あるいは周囲にもたらす苦痛が無視できないレベルまで達してしまった時です。これを目覚まし時計に例えると、まだ鳴り音が弱いときは無視して眠り続けるものの、すこしずつ鳴り音が大きくなるにつれて無視できなくなり、しまいには目を覚まさざるをえなくなるようなものです。

こう考えれば、問題が引き起こす「鳴り音」がまだ弱い時に目を覚ませばいいようなものですが、大多数の人はこれができません。かく言う私自身、こうした大多数の1人でした。

落ちるところまで落ちてしまうことで、多くの場合、人は謙虚になることができます。自分の無力さを痛感するからです。自分には問題があることを謙虚に認めた時に、光が指し始めることになります。ただし、このわずかの光を頼りに解決までへと独力で到達するのは至難の業です。

私がこの「ユダヤ流人生の知恵」という私塾の枠組で、講座と並んで皆さんに提供しているコーチングはこの助けになれればと思ってやっているものです。私自身、この同じコーチングを通して、自分がはまり込んでしまった深い闇から抜け出し、光を見ることができるようになった体験をまだ1人でもがき苦しんでいる人たちにもぜひ体験してもらいたいと強く願っています。

PS: つながる

2024-05-17

噂話の不毛さと危険性

日本に移り住んで以来突き合わせられる機会が増えた話がその場にいない第3者についての噂話です。聞かされる度に不毛さと危険性を感じてしまいます。

不毛さを感じるのは、噂話というのが基本的には他の人による自我の思考の解釈だからです。同じ理由から、例えば料理番組で芸能人たちが垂れ流す料理についてのコメントにも同じような不毛さを感じます。言ってみれば、視聴者としての私たちにとってはその場にいあわせていない料理という第3者についての一種の噂話だからです。

人を知るにしても、物を知るにしても、その王道は言語を介さないで直接知ることだという思いは強まるばかりです。この理由から、誰かに初めて会った時には、その人について本人にはあえて何も質問せずに、その人の存在、つまりその人の霊的エネルギーを感じるようにしています。ここで中途半端にその人について知ってしまうと、レッテル貼りになってしまい、直感が狂わされてしまうからです。誰かあるいは何かについて知ることと、その誰かあるいは何かを知ることの間には本質的な違いがあります。

噂話というのは、自分のよるレッテル貼りからさらに1段階隔離された別の人によるレッテル貼りということになり、その不毛さはさらに増します。

噂話は、その性質上、陰口に発展してしまう危険性も低くありません。その場にいあわせていない人の悪口を言うことは3人を(比喩的・霊的に)殺すことになるというユダヤ教の教えがあります。その3人とは、悪口を言う人、聞かされる人、そして陰で悪口を言われている人です。

悪口を言う人と聞かされる人に悪影響が及ぶことは簡単に想像がつくはずです。陰で悪口を言われている人にも悪影響が及ぶのは、言葉が持つ一種の霊的な力のせいです。悪口を言われると、その悪口の対象になったその人の欠点が増すと言われています。逆に、その場にいない誰かの良いことを言うと、その人の利点が増すと言われています。

誰かあるいは何かについて何も良いことを言うことがない場合には黙っているのがいいということをある人から教わり、それ以来、普段の生活でも実践するようにしています。ただ、これは不正に対して抗議の声を上げることは含まれないはずです。つまり直接本人にであれ、陰でであれ、悪口を言うことに対する戒めということになります。

誰かが言う陰口につき合わせられそうになったら、可能であれば、その場を去るようにしています。その陰口によって殺されることになる3人の1人にならないようにするためです。

PS: つながる

2024-05-10

名前が生み出す自我の幻想

自分とは誰かと問われた場合、多くの人が普通最初に出す答は名前なはずです。名前は究極的には言語によるレッテル貼りにすぎないにもかかわらず、名前が自分だと、あるいは名前が自分のアイデンティティーの大切な一部だと、少なくとも無意識に思っている人は少なくないでしょう。

しかし名前が与える自分とは幻想の自分であって、これによって本当の自分が覆い隠されてしまっているということになります。別の言い方をすれば、人間の成長の過程において、まずは親から呼ばれ、それから周囲の人たちからも呼ばれるようになる名前を自分と結びつけるようになると、幻想の自分としての自我による支配が確立します。

それでは名前はどうやって自我の幻想を生み出すのでしょうか。自我というのは、自分は独立の存在だという幻想です。自分も周りの人たちもそれぞれが独自の名前を持っているのを見て、自分も周りの人たちも名前という一種の境界によって仕切られた独立の存在だという幻想を抱くようになるのです。

これが幻想にすぎないことに、頭だけでなく、直接体験として気づくことは簡単なことではありません。私自身、これに気づくことができたのは、今思い返せば、ほとんど奇跡としか思えません。この文章も一部の方々には意味不明に聞こえてしまうことでしょう。それほど名前が生み出す自我の幻想は巧妙かつ深淵なのです。

いずれにしても、この幻想から目を覚ました後の視界は以前とは全く別物になりました。目を覚ます前の視界は例えて言えば霧の状態です。それなのに現実がはっきり見えているものとばかり思い込んでいました。目を覚ました後に目に入るようになってきた現実はこれまでとは全く別物です。それでもまだどれだけ霧がかかったままになっているのかは自分では分かるすべがありません。

人間社会を営んでいくためには、魂の借り物である肉体に名前だけでなく国籍や様々な番号をつけるのは一種の必要悪でしょう。便宜上、名前を使い続けはしても、そして名前というレッテルによって自我の幻想が生み出されていること、したがって名前は本当の自分そのものではないということを忘れないようにして生きることは可能です。

まだ言語学を職業にしていた頃、その最後の数年には辞書学と並んで人名学も研究対象にしていました。イスラエルの大学で教えた数々の科目の中で、群を抜いて学生たちから好評だったのが、ユダヤ人名学でした。その後、奇跡とした思えない経験を通して自我の幻想から目が覚め、言語一般、そして特に名前が自我の幻想を生み出すのに大きな貢献をしていることにも気づくようになると、人名研究に対する興味は一気にしぼんでしまいました。

PS: つながる