「肉体は本で、魂は著者で、人生は物語である。」 - ユダヤの格言
1 はじめに
私は終身在職権まで取得したイスラエルの大学を2020年9月末で早期辞職し、30年近くやっていた言語学者をやめました。その最大の理由はもうこれ以上自分自身をだまし続けることができなくなったからです。以下はその物語です。
2 多言語学習者・言語学者としての体験
私は中学生になって学び始めた英語を最初の他言語として、36歳でエルサレムの大学院を「退院」するまで、結局13の言語を学んだ計算になります。もちろん、すべてに流暢なわけではありませんし、最初からそのつもりもなかった言語が半分以上です。
これらのうち5つの言語に流暢で、これらの言語で学会発表をしたり、それに基づいて論文を書いたりしてきました。今はロシア語をこれら5つの言語と同じレベルに高めるために、母語話者の家庭教師をペースメーカーにしてずっと学習を続けています。
当時は、現代ヘブライ語とイディッシュ語とエスペラント語を研究対象にして、特に辞書学と社会言語学という言語学の分野に従事していました。イスラエルでは「退院」大学とは別の大学のヘブライ語学科で、ヘブライ語学と一般言語学を教えていました。
3 転機
その後、同業者の女性と知り合い、結婚前も結婚後も、ヘブライ語でも彼女の母語であるロシア語でもなく、イディッシュ語でやり取りを続けていました。残念ながら、この結婚生活も、そして順調に思えた言語学者としての職業生活も突然の終わりを告げることになること起こりました。
詳しい事情は省くとして、元妻から突然の離婚を切り出されたのです。様々な努力のかいもなく、結局離婚は回避できないことが分かり、今思い返せば、これで自我は大打撃を受けることになりました。しかし この大打撃をきっかけに、生まれて初めて言語を外から見つめる視点を得ることになったのです。
これによって、考える自分とは別に、それを観察する自分がいることも体感しました。そして有名な「我思う、ゆえに我在り」は世紀の迷言であることにも気づくことになりました。
4 言語の闇の側面
自我の崩壊によって引き起こされることになったこの経験と悟りを通して、言語学では絶対触れない、そしてそもそも言語学をいくらやっても見えない、言語の闇の側面が見えてきたのです。それは自我の思考という牢獄の番人としての言語の側面です。自我とは、自分だと思い込んでいる幻想の自分です。
幼児の第一言語習得において、この自我の思考という牢獄に囚われたことが決定的になる2段階があります。まずは、自分が呼ばれる名前そのものが自分だと思い込んだ時で、それから「私」といった1人称単数の人称代名詞を覚えた時です。
言語によって、無意識のレッテル貼りが始まるようになります。これは言語を持たない動物にはないことです。こうなると、レッテルを通してしか世界の現実を把握できなくなるだけでなく、自分がレッテル貼りをしていること自体に自分でも気づいていないのが、残念ながら、多くの人の現状です。
最も厄介なレッテル貼りは自分へのレッテル貼りです。これは、「本」にすぎない肉体が、そして「物語」にすぎない人生での体験、例えば名前、学歴、職歴等が自分そのもの、つまり「著者」だと錯覚してしまうことにほかなりません。「あなたは誰ですか」という問に対する多くの人の答は、いずれかの錯覚のどちらかです。
これをもっと一般化すれば、何かについて知ること、つまり言語を通した概念的理解は、何かを知ること、つまり直接体験とはまったく別物であるということにもなります。アイスクリームをいくら研究しても、アイスクリームを実際に食べなければ、アイスクリームを本当に理解したことにはならないのがこの例です。
5 言語学者をやめてから今まで
まずは、ユダヤ流人生の知恵の元となるハシディズムの教えをエルサレムで3年間体系的に学ぶ機会に恵まれました。その後、日本に移住して、この教えを伝えるオンライン私塾を始めたのが、今から2年ちょっと前です。この私塾では、自分と人生に輝きを取り戻し育むお手伝いをするために、このハシディズムの教えに基づいた講座とコーチングを日本語で提供しています。これは人生の使命を果たすための方法のひとつと捉えています。
ただ、かつての私自身がそうであったように、多くの人にとって、自分が知らないということ自体知らない知恵であるため、それを学ぶ必要性を中々実感してもらえないのが現状です。でもこれからのいくつかの経験から、本当にやる価値があることは、そう簡単には軌道には乗らないことも分かっているので、この試練はさほど苦にならないだけでなく、自分が意味のあることをやっているかもしれないという励ましにすらなります。
6 おわりに
以上、言語学者ではなく、本当の著者が自ら語る物語でした。(笑)ただし、物語はまだ続いています。その後、自分でも信じられないようなある大きな「地殻変動」が起こりました。大学を早期辞職して以来、今思えばおそらくずっと抱き続けてきた経済的不安からの解放です。しかも、そのための「鍵」は眼の前にずっとあったのに、気づかないでいたことに、あるいくつもの「偶然」の連鎖のおかげで突然気づくことになったのです。
最後に、言語の役割について。これまでは言語に使われてきたのが、言語を本当の意味で使うようになりました。特に私がエルサレムで体系的に学んだハバド派ハシディズムでは、言語を超越するために言語を使うという教えと実践にふれることができたのは本当に幸運でした。これは今でも私の大切な財産です。この投稿ではこの財産を皆さんの前で実際に惜しみなく使ってみました。(笑)
PS: ユダヤの寓話
ある貧しい男が自分の家族を支えようともがいてたところ、宝石に溢れた国が遠くにあることをある日耳にしました。そうこうしているうちに、そこに向けて近々出航する船があり、船には彼が乗れる空きがたまたまあることが分かりました。しかしひとつ問題がありました。それは、船は長期間戻って来ず、したがってその国には長期間滞在しなければいけないということでした。結局、妻の許可を得て、自分の家族を支えるための宝石をこの国から携えてくるべく、旅に出ることを決意しました。
この遠い国に着いてみると、たしかに至る所が宝石で溢れていました。急いで宝石を自分のポケットやかばんに詰めると、自分は金持ちになったと思い込み、自分の国に戻ったらこれで家族を支えられると喜んでいました。
しかしこの国では宝石は無価値であるということにほどなくして気付くことになりました。宝石はどこにもありすぎて、誰も何とも思っていないのです。どこの店でも代金の支払いに宝石を受け取ってくれるところはありません。代わりに、この国の通貨はろうそくでした。ろうそくは手に入れるのが難しく、皆から珍重されていたのです。誰もがろうそくをためるのに必死になっていました。所有するろうそくの数で富と権力が測られていたのです。
この男がろうそくの必要性を理解するのに長くはかかりませんでした。一生懸命働いて、ろうそくを出来るだけたくさん集めようとしました。ほどなくして、彼はたくさんのろうそくを集めます。自分のポケットとかばんに詰めていた宝石を取り出し、そこにろうそくを詰めます。この新しい国で彼は豊かで有名な「成功者」になったのです。
時が経ちます。妻と家族の元に戻る日がやって来ました。船が出航しようとしています。男はできるだけたくさんのろうそくを詰め、自慢気に乗船します。
家に戻ると、妻が暖かく迎えてくれました。携えてきた宝を見せてくれと言われると、男は自慢気にポケットとかばんを開けました。そこから出てきたのはろうそくの山でした。
ここで、男は自分がひどい間違いをしでかしてしまったことに気付きました。この遠い国に着いた時は、自分は宝石を集めるためにやって来たことを知っていました。しかしまもなく自分の使命を忘れてしまったのです。その国の人たちの影響を受けて、ろうそくを珍重し、宝石は無視するようになってしまっていました。自分の当初の目的はすっかり忘れ、ろうそくを集めれば成功者になれるとばかり思うようになってしまっていました。代わりに、彼は自分の国ではほとんど無価値なろうそくを携えて戻ってきたのです。