2024-06-28

すべてを知らなければいけないという強迫観念からの解放

19年ぶりにイスラエルから日本に移り住んでみると、様々な文化的な違いはたしかに目につきはしますが、それよりも両社会だけでなく、おそらく世界中すべての社会にも当てはまると思われるある根源的な共通点の方にはるかに目がいきます。それはどの社会でもほとんどの人は自我の幻想に支配されて生きているだけでなく、このこの自体にも気づいていないように見受けられることです。

多くの人とその人生を支配している自我の幻想の最たるものがその思考の幻想です。そして自我の思考の中でも見ていて特に気の毒になるのが、すべてを知らなければいけないという強迫観念です。これは学校教育という一種の集団洗脳の影響もあるかもしれませんが、誰かあるいは何かについてすべてを知らなければいけないという思いにかられて頭を悩ませたり詮索したりする一方で、あるいはそうすればそうするほど、その誰かあるいは何かの本質からはどんどん遠ざかっていってしまっているのです。

例えば、誰かの名前やこれまでの経歴をいくら知ったところで、その人の本質を知ることにはならないのに、多くの人はどうしても前者にこだわってしまっているようです。

これよりも厄介に思えるのは、すべての問には人間の限られた理性で導き出せる答が必ずあると思い込んで、ああでもないこうでもないと、これまた頭を悩ませたり詮索することです。これは知識欲とは本質的に異なる、一種の強迫観念に思えてなりません。

そもそも、情報や知識だけを溜め込んでも、有意義な人生に直結するとは思えません。本当に大切なのは知恵の方であるという思いは強まる一方です。知恵を伴わない知識は危険にすらなります。この意味で、断片的としか思えない知識の量だけを子どもたちに競わせるようなクイズ番組は、出演している子どもたち本人に壮大な勘違いをさせ、見ている子どもたちにも間違ったメッセージを送ることになっていないかと心配です。

人生には知り得ないこともあるという事実を受け入れて謙虚になることも知恵の大切な一種でしょうか。そしてすべてを知らなければいけないという強迫観念から自らを解放することで、自分という器に溜まった、あるいは詰まった思考のゴミは処分され、それによって空いたところに宇宙の叡智とでも言うべきものが、例えば直感という形で降ってくることは身を持って体験するようになりました。

PS: つながる

2024-06-21

日本では皆一体何にそんなにビクビクしているのか

まだイスラエルに住んでいて、講演を名目に日本に大体毎年1回来ていた頃も、去年の10月始めから日本に移り住むようになってからも、とても心配になる社会的な現象があります。それは多くの人が何かにビクビクしているようにしか見えない、感じられないことです。

これが個人レベルに留まらず、集団レベル、そこには否定的なエネルギーが充満してしまい、昔は自分までこの否定的なエネルギーに感染してしまうのを感じたものでした。それが自分でも驚くことに、エルサレムでハシディズムを体系的に学んだ後はこの感染がなくなったのです。

ハシディズムは喜びの教えとも言うことができます。喜びとは特別な状態ではなく、私たちの本質である魂の自然な状態なのです。生まれたばかりの赤ちゃんを見てみてください、あるいは思い出してみてください。皆喜びに溢れていますよね。これが本来の状態なのです。

それが、社会化が進むにつれて、世間の常識の名のもとに一種の集団洗脳を無意識に受け、少しずつこの喜びの光が覆い隠されていくようになります。自然な笑いの表情が消えていき、しまいには無表情になってしまいます。

恐れには、例えば肉体の生存を脅かされた時に感じる正当な恐れと、自分の思考が生み出す空想上の恐れとがあります。多くの人が何かにビクビクしているは後者になります。

それでは一体何にビクビクしているのかをずっと考えてきました。これまでのところたどり着いた暫定的な結論は、同調圧力のせいもあって、どうしても周りの目が気になってしまうからではないかということです。さらにそれではなぜ周りの目が気になってしまうのでしょうか。これについては、周りから嫌われるのが怖いからではないかと想像しています。

周りから嫌われないようにと考え続けていると、結局、自分の発言や行動だけでなく表情までをも自己検閲してしまうことになります。こうした自己検閲の最大の犠牲になるのが喜びの光です。ハシディズムの教えという一種の防御壁のおかげで感染はしなくなったものの、ビクビクしているような人たちに会う度に、その闇を光に変えてあげたいという思いが今でも高まります。

ビクビクしながら生きるのとはまったく異なる生き方があるということを言葉だけで伝えようとしても、残念ながら、どれだけ伝わっているのかは自信がありません。プラトンの有名な「洞窟の寓話」にあるように、生まれてからずっと洞窟でしか暮らしたことがない人たちに、洞窟に外には広大な明るい世界があることを言葉で説明しても、なかなか信じてもらえないようなものでしょうか。もどかしいです。

こうした洞窟の外の世界に触れることで、本来の喜びを取り戻すための講座とコーチングを日本での一種の使命として提供しています。変化に必要な第1歩は行動に出ることです。

PS: つながる

2024-06-14

ユダヤ流人生の選択の方法

進学・就職・結婚といった大きな選択から、今何をするか(あるいはしないか)といった小さな選択まで、人生において私たちは常に選択を求められています。その際に皆さんはどんな基準に基づいてそれぞれの選択をされていますか。すべての選択はある共通の確固たる基準に基づいてなされるものですか、それともその時々の思いつきでなされるものですか。

人間を動物と分ける最たるものが、言語と並んで、自由意志に基づいて選択することができるということです。しかし、日々の生活で繰り返しなされる小さな選択だけでなく、場合によっては大きな選択ですらも、意識的になされる代わりに、いわゆる「自動操縦モード」で無意識・条件反射的に、あるいは「常識」や同調圧力といった社会の集団自我の声に押されて選択をしていることが少なくないはずです。

選択が自由にできるということには責任も伴います。まずは自分自身に対する責任です。そして多くの場合、自分の選択は周囲にも大きな影響を与えることになります。それでは、どんな場合でも意識的に、しかもぶれない選択をするには、その基準としてどんなものを据えればいいのでしょうか。

今大きな選択を迫られている方、あるいは今後そうなった場合に、そして普段の生活の中でも、共通の確固たる基準を知りたいという方はこの講座ぜひ受けられてみてください。自分が知らないということ自体をこれまで知らなかったことを知ってもらえるはずです。

PS: 詳細・お申し込み

PPS: つながる

2024-06-07

レッテル貼りと言語化

30年近く携わってきた言語研究をやめることにした最大の理由のひとつは、覚醒の一環として言語の本質の負の側面に気づいてしまったことです。それはレッテル貼りという言語の本質的な機能です。少なくとも霊的には不可分の統一体・単一体である宇宙を恣意的に分節するのが言語のこの機能です。

例えば、何かに名前をつけてしまったら、もうその名前というレッテルを通してしかそのものを見れなくなってしまうのが普通です。これは他人の名前だけでなく、自分に貼りつけられた名前でも同じことです。名前こそが自分だという幻想を抱かないことが難しいくらいです。

名前以外のレッテル貼りは日常生活でもごく一般的です。例えば、出自・学歴・職歴といったもので他人にそして自分にするレッテル貼りです。これによって、その他人そして自分の本質からはどんどん遠のいていってしまうことになります。

こう考えると、本来私たちの下僕であるべき言語が私たちの主になってしまっているというになります。言語の本質について、言語学界のある重鎮が書いた文章を読んでも、気鋭とされる言語学者が書いた本を読んでも、こうした言語の負の側面にはまったく気づいていないことがよく分かりました。つまり、言語学をいくらやっても、言語の本質はおそらく見えてこないのです。

今から3年ちょっと前に大学を早期辞職して、言語研究もやめた後ではこういう思いは強まる一方でしたが、言語の持つある肯定的側面にも気づくことができ、使い方次第では言語を下僕としなおすことも可能であることを痛感しました。

それは言語化です。特に、5月に集中的にコーチングを受けてもらったカップルがこの言語化にとても敏感に反応してくれるのを見て、2人の発見の助けになれたと感じさせられ、こちらまでとても嬉しい気分になりました。

ここでいう言語化とは、これまで混沌としていたことに言葉の助けを借りて概念的秩序を与えることです。レッテル貼りが全体の中の一部だけを取り上げて、それがあたかも全体を表すものであるかのような幻想に浸ることであるとすれば、言語化とは散り散りバラバラだったものを一語で統合することであるとでも言えるでしょうか。

つまりレッテル貼りと言語化は対局にあるとも言えるでしょう。両者の違いは、レッテル貼りに使われる言葉は死んだ言葉であるのに対して、ここでいう言語化に使われる言語は生きた言葉であるとも言えそうです。

PS: つながる