2024-06-07

レッテル貼りと言語化

30年近く携わってきた言語研究をやめることにした最大の理由のひとつは、覚醒の一環として言語の本質の負の側面に気づいてしまったことです。それはレッテル貼りという言語の本質的な機能です。少なくとも霊的には不可分の統一体・単一体である宇宙を恣意的に分節するのが言語のこの機能です。

例えば、何かに名前をつけてしまったら、もうその名前というレッテルを通してしかそのものを見れなくなってしまうのが普通です。これは他人の名前だけでなく、自分に貼りつけられた名前でも同じことです。名前こそが自分だという幻想を抱かないことが難しいくらいです。

名前以外のレッテル貼りは日常生活でもごく一般的です。例えば、出自・学歴・職歴といったもので他人にそして自分にするレッテル貼りです。これによって、その他人そして自分の本質からはどんどん遠のいていってしまうことになります。

こう考えると、本来私たちの下僕であるべき言語が私たちの主になってしまっているというになります。言語の本質について、言語学界のある重鎮が書いた文章を読んでも、気鋭とされる言語学者が書いた本を読んでも、こうした言語の負の側面にはまったく気づいていないことがよく分かりました。つまり、言語学をいくらやっても、言語の本質はおそらく見えてこないのです。

今から3年ちょっと前に大学を早期辞職して、言語研究もやめた後ではこういう思いは強まる一方でしたが、言語の持つある肯定的側面にも気づくことができ、使い方次第では言語を下僕としなおすことも可能であることを痛感しました。

それは言語化です。特に、5月に集中的にコーチングを受けてもらったカップルがこの言語化にとても敏感に反応してくれるのを見て、2人の発見の助けになれたと感じさせられ、こちらまでとても嬉しい気分になりました。

ここでいう言語化とは、これまで混沌としていたことに言葉の助けを借りて概念的秩序を与えることです。レッテル貼りが全体の中の一部だけを取り上げて、それがあたかも全体を表すものであるかのような幻想に浸ることであるとすれば、言語化とは散り散りバラバラだったものを一語で統合することであるとでも言えるでしょうか。

つまりレッテル貼りと言語化は対局にあるとも言えるでしょう。両者の違いは、レッテル貼りに使われる言葉は死んだ言葉であるのに対して、ここでいう言語化に使われる言語は生きた言葉であるとも言えそうです。

PS: つながる