2023-11-24

まずは行動

イスラエルを離れて約19年ぶりに日本で暮らすようになって気になることのひとつが、イスラエルと比べて日本では考えすぎるあまり、あるいは考えるだけで実際の行動を起こさない人・場合が多いのではないかということです。もちろん、この印象が間違っているに越したことはないのですが、残念ながら、少なくとも今のところはこれが間違った印象であるということを裏付けるような証拠には遭遇していません。

シナイ山で啓示を受ける際の言葉(出エジプト記24章7節)に発するユダヤ教の教えに、まずは行動し、それから(説明を)聞く(そして理解する) - נעשה ונשמע - というものがあります。頭だけの知識ではなく、実技あるいは人生の知恵の場合、まずは実際に行動を起こすことで直接体験をしてみないことには、本当には理解できないことの方が多いからです。

身近な例として、例えば水泳を考えてみてください。いくら泳ぎ方のメカニズムを説明してもらい、頭だけで理解しようとしても、実際に泳がなければ、泳げるようにはなりません。他には、言葉を話す能力を身につける場合、実際に話す必要があります。

中々行動を起こせない人の頭の中ではどういう考えが渦巻き、第1歩を踏み留まらせているのでしょうか。日本の場合だと、完璧主義と謙譲が代表的な理由として挙げられるはずです。

完璧主義と言うと美徳のように思われる方も少なくないかもしれませんが、実は問題の方が多い特質です。完璧には切りがないからです。何かを始めるための準備が完璧に整うのを待っていたら、何も始めることはできません。不完全でもいいので、それなりの準備が整ったら、見切り発車する方がはるかに賢明です。

日本式の謙譲も問題があります。日本式の自己卑下は本当の意味での謙譲ではなく、自意識過剰の裏返しです。ユダヤ教が教える本当の謙譲というのは、他の人が同じことをやったら自分よりも上手くできるはずだけれでも、このことを自覚した上で敢えて自分はやってみるというものです。

そして日本に限らず、人間であればおそらく誰でも抱えているはずの最大の理由のひとつは失敗の恐怖です。失敗を恐れるあまり、行動のための最初の1歩が踏み出せず、失敗について考えれば考えるほど、その恐怖は増していくのです。おそらくこれは皆さんにも経験があるはずです。これへの対処法としては、失敗の恐怖に抵抗するのを止め、それをありのままに受け入れつつ行動を起こすことです。実際に行動を起こし始めてみれば、失敗の恐怖も薄れていくはずです。

これら3つの理由に共通することは思考の牢獄に囚われているということです。一言で言えば、考え過ぎということですね。考え過ぎを止める確実な方法は行動を起こすことそのものです。

と、ここまで書き終わった直後に、エルサレムでとてもお世話になっていたハバド派のラビの1人から連絡があり、ある大きな目的のためのある助けに協力してくれないなという依頼が偶然にもありました。かなりの難題なので最初は断りたい誘惑にかられましたが、今自分で書いたことを試す貴重な機会だと思って、引き受けることにしました。

PS: つながる

2023-11-17

相手に口を噤むべき時

政治と宗教の話はやめておいた方が無難だとよく言われます。このいずれか、あるいは両方の話が議論に発展し、さらには口汚いの罵り合いにまで墜落し、最後には感情的になって絶交にまで至った例というは、周りで目撃されたり、実際に自分で体験したり、ということが皆さんにもあるはずです。

チャットやソーシャルメディアといったオンラインでのやり取りではこれが加速してしまいます。一時的にかっとなって出た言葉が即座に送れてしまうからです。そしてこれは普通相手側も同じことです。

そもそも政治と宗教の話はこうなる危険性が高いのは、自分が信奉する主義・主張とはまったく異なる、場合によっては正反対な意見や教義を信奉する誰かから批判された場合、一種の人身攻撃と自我が判断してしまうからです。

自我は本来幻想にすぎないにもかかわらず、こうなると自分の生存が脅かされたと錯覚して、生存をかけて相手に反撃することになるのです。多くの場合は無意識であるはずの最終目的は相手を論破することです。

脅かされたと感じる自我は、個人自我である場合もあれば、集団自我である場合もあります。そして自分が所属すると考えている集団の自我が脅かされたと感じれば、個人自我が脅かされたと感じる場合よりも、普通人はより凶暴・残虐になるものです。

しかし実際問題として、こうした感情的な罵り合いでどちらかが相手に説得されるということはまずありません。それどころか関係はこじれるだけです。

恥ずかしながら、数年前にアルコールを完全に止めるまでは、私自身こういうことをけっこう頻繁にやらかしていました。そしてアルコールを口にすると、さらにひどくなっていました。

離婚を契機に突然アルコールを飲みたくなくなり止めてから、少しずつ確実に目が覚めていくようになると、この点でも少しずつ確実に変化が起こるようになりました。

自分が正しいということを相手に思い知らせようとするよりも、心の平安を保つ方がはるかに大切だと分かったのです。とはいうものの、相手を論争に引きずり込んだり、相手に論争に引きずり込まれたりすることが完全になくなったわけではありません。ただ、昔と違って、そうなっても、自分がやってしまったことに対する問題意識ははっきりと持てるようにはなりました。

それではそもそもこのような論争を始める代わりにどうするのがいいのでしょうか。一言で言えば、相手に口を噤み、必要とあれば比喩的な意味で、あるいは実際に物理的に歩き去るのです。

これが特に有効、あるいは唯一の方法だと痛感するのは、自分が盲信している主義・主張とは異なり、したがって攻撃しようとしてくるこちら側の主義・主張を相手側が知らないだけでなく、それを謙虚に聞こうとする代わりに、頭ごなしに否定するような場合です。

ある問題が起こって、両方の側の当事者の言い分が正反対な場合、まずは双方の言い分を聞き、さらにはその問題の専門家でもある第三者の分析も確認するということを、ある色々な偶然が重なって、少し前に人生で初めてやりことになりました。

この特定の問題の場合、これまで自分が盲信し、今でも社会の多数派が盲信し続けていることが集団洗脳の結果だということにはっきりと気づいた時には自分でも本当に驚きました。そしてさらには、集団洗脳を受けた多数は自分たちが何を知らないのか自体を知らず、洗脳を受けているということにも気づいていない、ということにも気づくことになりました。

もちろん、かく言う私自身、もし自分が知らないということ自体を知らないでいることはまだまだたくさんあるはずだと思うと、謙虚にならなければと身が引き締まる思いです。

最後にまとめますと、自分の無知の無知を自覚しておらず、自分は盲信していないと盲信している相手に議論を挑み、論破しようとするのは時間の無駄です。自分が正しいことをこうした人たちに証明することと、心の平安を保つことと、どちらが大切でしょうか。答は明らかなはずです。そうです。相手に口を噤むのです。

PS: つながる

2023-11-10

集団自我

自我には、ただ自我と言った場合に指す個人自我だけでなく、おそらくあまり知られていない集団自我というものもあります。皆さんは聞かれたことがありますでしょうか。

一言で言えば、集団自我とは社会集団そして社会制度が持つ自我のことです。そして社会集団には国家や会社から地域社会やクラブまでその規模と種類は様々です。社会制度には例えば言語まで含まれます。そうです、言語にまで集団自我があるのです。

個人自我と集団自我の共通の特徴は、本来は幻想にすぎない自分を守ることです。そのためには自分が他とは別個な存在であるという幻想を補強し続ける必要があります。

分かりやすい例として国家レベルの社会を考えてみましょう。例えば、日本社会を念頭に置いてみてください。広義の文化がその集団自我の規則体系です。この規則は明文化されているわけではなく、社会の規範や常識の名の元に、まずは家族、続いて地域社会というミクロ社会、そして学校教育や社内教育を通して、子供の頃から無意識のまま少しずつ集団洗脳を受けていきます。

国家レベルの社会に限らず、どの社会集団であっても、私自身の経験からすると、その構成員のおそらく7割か8割程度は自らが所属する(あるいは所属させられている)社会集団の集団自我が命じることに無意識のまま従って生きています。もっと一般的な言葉で言い換えれば、その社会集団が敷いたレールの上を何の疑問も感じることなく走り続けるのです。このようにしてその集団自我の大切な「運動員」になり、新しい構成員に集団洗脳をかける道具と化していきます。

幸か不幸か、私は中学校時代に通った中学校の集団自我の圧力に抵抗して一種の村八分を受けるという原体験を持ったおかげで、それ以降の人生では、今思えば集団自我だと分かるものには本能的に拒絶反応を催すようになり、所属した(あるいは所属させられた)社会集団の多くをしばらくすると自分の意志で去るということを繰り返してきました。その一番最近の例は大学という社会集団とその集団自我からおさらばするために大学を早期辞職したことです。

最初に書いたことをここで繰り返し、さらなる説明を加えてみます。集団自我の目的はその社会集団の存続を確保することです。それを脅かす構成員あるいは他の社会集団に対しては、容赦なく攻撃を加えてきます。こうした攻撃は村八分といった社会的制裁が普通ですが、それでも脅威が排除できなければ、物理的攻撃にまで出てきます。国家間あるいは民族間の争いも、究極的にはそれぞれの集団自我の衝突と捉えることができます。

所属する(あるいは所属させられている)社会集団の集団自我が命じることに従って生き続けることには、波風が立たない人生が送れるだとか、出世競争に勝てるだとかといった利点があります。しかしこうした人生が果たして魂の成長という人生の本当の目的を叶えることにつながるかというと、はなはだ疑問です。

集団自我に反旗を翻すことは現実的には難しいにしても、それから一歩身を引いて、魂の成長につながるような人生に少しずつでも移行していくことは可能です。そのための助けも兼ねてこの「ユダヤ流人生の知恵」という私塾を立ち上げた次第でもあります。

PS: つながる

2023-11-03

私塾「ユダヤ流人生の知恵」のお知らせ

大いなる何かに導かれて、帰化までして長期間住んだイスラエルを2023年9月末に一旦離れ、生まれ育った日本、それも日本で人生最初の18年間を過ごした秋田県由利本荘市で1人暮らしを続ける母と42年半ぶりに一緒に暮らし支えることになりました。

長期間住むことになりそうな日本では、エルサレムで体系的に学んだハシディズムという「トーラーの内面性」の深遠な教えに基づいたユダヤ流人生の知恵を通して、幻想の自分から目覚め、本当の自分を取り戻すためのオンラインの私塾を主宰しています。

私自身そうだったように、日本の皆さんもこれによって意識のレベルと高め、有意義な人生を作ってもらえればと心から願っています。

* 写真は由利本荘市の中で今住んでいる地区で早朝に撮ったものです。

PS: つながる