政治と宗教の話はやめておいた方が無難だとよく言われます。このいずれか、あるいは両方の話が議論に発展し、さらには口汚いの罵り合いにまで墜落し、最後には感情的になって絶交にまで至った例というは、周りで目撃されたり、実際に自分で体験したり、ということが皆さんにもあるはずです。
チャットやソーシャルメディアといったオンラインでのやり取りではこれが加速してしまいます。一時的にかっとなって出た言葉が即座に送れてしまうからです。そしてこれは普通相手側も同じことです。
そもそも政治と宗教の話はこうなる危険性が高いのは、自分が信奉する主義・主張とはまったく異なる、場合によっては正反対な意見や教義を信奉する誰かから批判された場合、一種の人身攻撃と自我が判断してしまうからです。
自我は本来幻想にすぎないにもかかわらず、こうなると自分の生存が脅かされたと錯覚して、生存をかけて相手に反撃することになるのです。多くの場合は無意識であるはずの最終目的は相手を論破することです。
脅かされたと感じる自我は、個人自我である場合もあれば、集団自我である場合もあります。そして自分が所属すると考えている集団の自我が脅かされたと感じれば、個人自我が脅かされたと感じる場合よりも、普通人はより凶暴・残虐になるものです。
しかし実際問題として、こうした感情的な罵り合いでどちらかが相手に説得されるということはまずありません。それどころか関係はこじれるだけです。
恥ずかしながら、数年前にアルコールを完全に止めるまでは、私自身こういうことをけっこう頻繁にやらかしていました。そしてアルコールを口にすると、さらにひどくなっていました。
離婚を契機に突然アルコールを飲みたくなくなり止めてから、少しずつ確実に目が覚めていくようになると、この点でも少しずつ確実に変化が起こるようになりました。
自分が正しいということを相手に思い知らせようとするよりも、心の平安を保つ方がはるかに大切だと分かったのです。とはいうものの、相手を論争に引きずり込んだり、相手に論争に引きずり込まれたりすることが完全になくなったわけではありません。ただ、昔と違って、そうなっても、自分がやってしまったことに対する問題意識ははっきりと持てるようにはなりました。
それではそもそもこのような論争を始める代わりにどうするのがいいのでしょうか。一言で言えば、相手に口を噤み、必要とあれば比喩的な意味で、あるいは実際に物理的に歩き去るのです。
これが特に有効、あるいは唯一の方法だと痛感するのは、自分が盲信している主義・主張とは異なり、したがって攻撃しようとしてくるこちら側の主義・主張を相手側が知らないだけでなく、それを謙虚に聞こうとする代わりに、頭ごなしに否定するような場合です。
ある問題が起こって、両方の側の当事者の言い分が正反対な場合、まずは双方の言い分を聞き、さらにはその問題の専門家でもある第三者の分析も確認するということを、ある色々な偶然が重なって、少し前に人生で初めてやりことになりました。
この特定の問題の場合、これまで自分が盲信し、今でも社会の多数派が盲信し続けていることが集団洗脳の結果だということにはっきりと気づいた時には自分でも本当に驚きました。そしてさらには、集団洗脳を受けた多数は自分たちが何を知らないのか自体を知らず、洗脳を受けているということにも気づいていない、ということにも気づくことになりました。
もちろん、かく言う私自身、もし自分が知らないということ自体を知らないでいることはまだまだたくさんあるはずだと思うと、謙虚にならなければと身が引き締まる思いです。
最後にまとめますと、自分の無知の無知を自覚しておらず、自分は盲信していないと盲信している相手に議論を挑み、論破しようとするのは時間の無駄です。自分が正しいことをこうした人たちに証明することと、心の平安を保つことと、どちらが大切でしょうか。答は明らかなはずです。そうです。相手に口を噤むのです。