2023-11-10

集団自我

自我には、ただ自我と言った場合に指す個人自我だけでなく、おそらくあまり知られていない集団自我というものもあります。皆さんは聞かれたことがありますでしょうか。

一言で言えば、集団自我とは社会集団そして社会制度が持つ自我のことです。そして社会集団には国家や会社から地域社会やクラブまでその規模と種類は様々です。社会制度には例えば言語まで含まれます。そうです、言語にまで集団自我があるのです。

個人自我と集団自我の共通の特徴は、本来は幻想にすぎない自分を守ることです。そのためには自分が他とは別個な存在であるという幻想を補強し続ける必要があります。

分かりやすい例として国家レベルの社会を考えてみましょう。例えば、日本社会を念頭に置いてみてください。広義の文化がその集団自我の規則体系です。この規則は明文化されているわけではなく、社会の規範や常識の名の元に、まずは家族、続いて地域社会というミクロ社会、そして学校教育や社内教育を通して、子供の頃から無意識のまま少しずつ集団洗脳を受けていきます。

国家レベルの社会に限らず、どの社会集団であっても、私自身の経験からすると、その構成員のおそらく7割か8割程度は自らが所属する(あるいは所属させられている)社会集団の集団自我が命じることに無意識のまま従って生きています。もっと一般的な言葉で言い換えれば、その社会集団が敷いたレールの上を何の疑問も感じることなく走り続けるのです。このようにしてその集団自我の大切な「運動員」になり、新しい構成員に集団洗脳をかける道具と化していきます。

幸か不幸か、私は中学校時代に通った中学校の集団自我の圧力に抵抗して一種の村八分を受けるという原体験を持ったおかげで、それ以降の人生では、今思えば集団自我だと分かるものには本能的に拒絶反応を催すようになり、所属した(あるいは所属させられた)社会集団の多くをしばらくすると自分の意志で去るということを繰り返してきました。その一番最近の例は大学という社会集団とその集団自我からおさらばするために大学を早期辞職したことです。

最初に書いたことをここで繰り返し、さらなる説明を加えてみます。集団自我の目的はその社会集団の存続を確保することです。それを脅かす構成員あるいは他の社会集団に対しては、容赦なく攻撃を加えてきます。こうした攻撃は村八分といった社会的制裁が普通ですが、それでも脅威が排除できなければ、物理的攻撃にまで出てきます。国家間あるいは民族間の争いも、究極的にはそれぞれの集団自我の衝突と捉えることができます。

所属する(あるいは所属させられている)社会集団の集団自我が命じることに従って生き続けることには、波風が立たない人生が送れるだとか、出世競争に勝てるだとかといった利点があります。しかしこうした人生が果たして魂の成長という人生の本当の目的を叶えることにつながるかというと、はなはだ疑問です。

集団自我に反旗を翻すことは現実的には難しいにしても、それから一歩身を引いて、魂の成長につながるような人生に少しずつでも移行していくことは可能です。そのための助けも兼ねてこの「ユダヤ流人生の知恵」という私塾を立ち上げた次第でもあります。

PS: つながる