2023-09-29

英雄の旅

今回は19年間住んだエルサレムを一昨日水曜日に離れ、ある個人的な使命を果たすための新天地となるある国に昨日予定通り無事着きました。この国での最初の中継地では、色々と応援してくれている人たち5人と会い、今は第2の中継地に来ています。ここにあるハバド派シナゴーグで新天地で最初となる安息日を過ごす予定です。

この使命の具体的な内容と具体的な場所はある理由から現時点ではまだ公言できないだけでなく、この理由自体まだ公言できません。でも、近い将来にある関門が無事通過できたら、この使命の具体的な内容についてこの場でもお話します。

魂が肉体を借りてこの世にやって来ることを仮にマクロ使命と呼べば、このマクロ使命を果たすために、人生を通していくつかのミクロ使命とでも呼べるものを普通体験するようになっています。

私がここでミクロ使命と読んだものを、アメリカの比較神話学者 Joseph Campbell は「英雄の旅」と呼んでいます。元々古今東西の神話を比較分析して得られた説明モデルに後代の人がこう命名したものです。ライフコーチングの枠組としても用いられることがよくあります。

今回私を選んだミクロ使命もこの「英雄の旅」という枠組の第1段階にピッタリ合います。いわば「ぬるま湯」に浸かった生活をしていた「英雄」の人生に大きな転機が訪れます。外的な状況が突然大きく変わり、これまで浸かっていた「ぬるま湯」を抜け出して「旅」に出る以外選択肢が残されなくなるのです。だから、今回の私もこのミクロ使命を選んだというよりも、それに選ばれたというのがよりしっくり来ます。

今回のミクロ使命だけでなく、人生全体というマクロ使命も、その究極の目的は魂の成長です。いわゆる「成功」は基本的には無関係です。ただし、「成功」してはいけないというわけではなく、それに気を取られるばかりに、本来の目的を忘れてしまわないことが大切です。

「英雄の旅」を皆さんがもっと具体的に想像してもらえるように、例えば「指輪物語」とか「ハリー・ポッター」を思い出してみてください。どちらのその第1段階では「英雄の旅」に出ることを余儀なくされています。そして「英雄の旅」ではその目的はそう簡単に達成できるわけではなく、途中には幾多の挑戦が待ち受けています。

私が今回の「英雄の旅」に出る前に、エルサレムでお世話になっていたあるハバド派のラビの1人からある貴重な助言を得ました。それは、今回のミクロ使命を含めたマクロ使命全体に私を送り出したのは誰か自分に問いかけてみることです。この問に対する答はほどなく見つかりました。今後遭遇するであろう挑戦という「関門」を1つ1つ通過していく際に、この答を自分に言い聞かせようと思っています。

2023-09-22

今を生き、「真空保存」する

イスラエルを離れるのが来週水曜日と、エルサレムでの生活の終わりが近づくにつれて、自分の中である大きな変化が起こるようになりました。これまで色々と学び、少なくとも頭では理解できたものの、実生活には中々応用できないでいたことです。それは今を生きるということです。

とても不思議なそして素晴らしい感覚です。英語では人間を指すのに human being という表現がありますが、ほとんどの人間は human being というよりも human doing になってしまっています。つまり、私たちの本質である存在が行動によって乗っ取られてしまったようなものです。

例えて言えば、行動とは海の表面の波のようなものであって、水面下にある静寂が本質としての存在になるでしょう。つまり今を生きるというのは、海の表面の波から海の水面下の静寂に意識が移行することも意味するはずです。少なくとも私自身はこういう意識になっています。

今を生きるということをうまく表す漢字があります。それは「念」という漢字です。これを分解すると、「心今にあり」となります。

人生で初めて今を生き始めると、特に自分の時間が限られたものである時こそ他人に与えられる最も貴重なものは、自分の時間と並んで自分の存在であることも痛感します。自分の存在を誰かに与えるとは、例えばその相手を傾聴することも意味します。

こうした意識の状態で、周囲を見渡してみると、ほとんどの人たちは今を生きていないことにあらためて気づきます。これを妨げているのは、自分の本質が行動ではなく存在であるということをすっかり忘れてしまっているせいだけでなく、思考の牢獄に囚われてしまっているからであることにもあらためて気づきます。

今を生きられないでいるという狭い文脈での思考の牢獄というのは少なくとも2つ挙げられます。1つは過去の後悔と将来への不安に囚われて今を生きられないでいるということで、もう1つは思考が自動操縦モードになっていて今を生きられないでいるということです。

思考が自動操縦モードになっているというのは、例えば、今回私がイスラエルを離れてある新天地での使命を引き受けることにしたという話をこちらですると、ほとんど皆が最後に「成功」を条件反射的に願ってくれます。もちろん、善意しかないことは分かります。成功し続けることは謙虚さを身につける機会を失うといういう意味で人生最大の挑戦であるという教えを、理解してくれそうだと思った一部の人たちには紹介しました。その後で、「成功」よりも成長を願ってほしいと告げても、実際に成長を願ってくれた後で、最後にまた条件反射的に「成功」を願ってくれる場合がよくありました。

本題の今を生きるという感覚は言葉だけでは十分に伝えることができない本当に不思議な感覚です。今を生きていてると、素晴らしい感情も瞬間瞬間に沸き起こってきます。ということで、今を生きるだけでなく、今を「真空保存」することも今試み続けています。

この試みは、ちょうど離婚騒動が始まった(そして結局避けることができないことが分かった)2017年12月から2018年2月までクライアントとしてグループで受けたユダヤ式ライフコーチングの期間中に無意識に初めてやったことです。それはある曲を何度も何度も繰り返し聴くことです。そしてしばらく経ってからこの曲を聴き直すと、当時の感情が鮮明に蘇ってくるのです。この曲は今でも時々聴き直して、初心を思い出しては自分を鼓舞しています。

そして今また同じ試みを別の曲でやっています。私がエルサレムで習った東欧ユダヤ民俗ダンスの先生があるワークショップで踊っている時のビデオをMP3に変換して何度も何度も聴き直しています。このダンスで使われているのはクレズメル音楽の有名な曲です。ご参考までに、このダンスのビデオとMP3への変換無料オンラインサービスへのリンクをここに張っておきます。

2023-09-15

自家発電所

この5年間ハシディズムを学び続けてきたことの最大の成果のひとつは、いつの間にか自分の中に一種の自家発電所が出来ていたことです。この自家発電所のお陰で、否定的エネルギーに侵されにくくなりました。

どの社会にも何らかの否定的エネルギーがうごめいています。例えば、イスラエル社会と日本社会で私が感じる否定的エネルギーはそれぞれ自己中心主義と無神経、他人の目に対する恐怖と憂鬱です。

前回以前は日本に行くたびに、この否定的エネルギーにすぐに侵され、イスラエルに戻る頃までには自分まで憂鬱になってしまっているいましたが、前回年末年始に日本に行った時は、「無傷」でイスラエルに戻ってくることができ、自分でも感動したことを覚えています。

私たちの本来の状態、つまり魂の本質は喜びです。喜びを覆い隠している闇を取り除くだけで元の喜びの状態に戻れるのです。曇っている時でも、太陽は常に光り輝いているのと同じことです。

したがって、ハシディズムを学び続けることで出来た自家発電所がやっていることも、喜びを生み出すのではなく、喜びを覆い隠そうとする雲を蹴散らし、近づかせないようにすることです。こうした雲の最たるものは様々な否定思考です。

ハシディズムの教えは究極の肯定思考です。なぜかというと、その根底にはすべては善であるという信念があるからです。こうした信念と喜びの間には親和性があります。すべてが善であることを覆い隠しているものの最たるものは私たちの視野の狭さです。五感と知性をいくら駆使しても、私たちに見えている現実はごく僅かです。

これまでとは違って、お陰で前回日本に行った際に自分の中にできていたこの自家発電所の存在に気づいたことは、イスラエルを離れ、ある新天地で使命を引き受けることを決断する際にも大きな後押しになりました。この自家発電所が出来ていなかったら、おそらく躊躇していたはずです。

ただ、この自家発電所も燃料を補給し、維持し続ける必要があります。こうした補給燃料の中でも一番大切なのはハシディズムの日々の学びです。この5年間で築き上げた数百冊のハシディズムの個人蔵書のうち、今回の使命に持っていけるのは約10分の1の数十冊だけです。選りすぐったこの数十冊の中でも個人的に特に大切なのが、この投稿の写真に載せた5冊です。いずれもヘブライ語原文にロシア語対訳がついたものです。新天地でもこれらの本を毎日学び続けます。

PS: 以下はこうした選りすぐりの数十冊の一覧へのリンクです。

2023-09-08

大いなる何かに導かれて

当時は最悪の選択にしか思えなかった、エルサレムを離れることも意味するある選択だけはどうしても避けたいと思って、今思い返せば悪あがきにしか思えないようなことを続けていました。何をやってもうまく行きませんでした。

これが根本的に変わったのは、流れに逆う代わり、流れに身を任せようと思ってからです。今からちょうど1ヶ月前のことです。それ以来すべてが不思議なほど滑らかです。

何かに屈したという思いはありません。大いなる何かに導かれているということを深く感じます。これに伴って、人生でこれまで1度も経験したこともないような心の静寂も以来感じています。

長年住み、まさか離れることになるとは夢にも思わなかったエルサレムを離れるのは感情的にはとてもつらいですが、もっと深いレベルでは、自分の成長のためそして社会貢献のための大きな可能も感じます。

今のこの感じを例えて言うならば、これまで独立した存在とばかり信じ込まされ、自分でも信じ切っていた波が、自分は大きな海の一部であると悟ったようなものです。独立した存在としての波は、個人自我と集団自我を含む自我の幻想にすぎません。

この幻想から目を覚まし、大いなる何かに身を任せるとは、自我のちっぽけな力 (force) に頼ってあくせくする代わりに、宇宙の叡智という壮大な力 (power) に後押ししてもらっていることも意味するはずです。すべてが信じられないほど滑らかに流れていくように感じるのも無理のないことでしょう。

2023-09-01

エルサレムでの残された時間が限りあるものであることを意識するようになって悟るようになったこと

エルサレムでの残された時間と反比例して、意識の感度が加速度的に高まっていっているのを感じます。例えて言えば、白黒テレビから突然カラーテレビに切り替わったかのように、これまでおぼろげにしか見えていなかったことが突然鮮明に見えるようになったような感じでしょうか。

その最たるものは、自分にとって誰がそして何が本当に大切なのか、そして自分は誰にとって大切とされているのかをはっきりと悟ったことです。自分が大切だと思われていない人に、そして自分にとってどうでもいいことに時間を費やす余裕はないのに対して、突然あるいは改めて大切であることが分かった人たちに対しては時間と存在という今の自分にとっては最も高価なものを可能な限り惜しみなく与えるようにしています。

さらには、自分にとって大切かどうかということとは別に、これまだ交流のあった人たちも含めて色々な人たちの「素顔」、つまり意識の状態がこれまた鮮明に見えるようになりました。これに呼応するかのように、一気に(さらに)親しくなった人たちがいる一方で、一気に疎遠になった人たちもいます。

個々の「素顔」の違いを超えて多くの人に共通して見られる人類の集団的病とでも言うべきものにも短期間で繰り返し何度も何度も遭遇しました。言語を門番とする自我の思考の牢獄という集団的病です。本体道具であるべき言語に多くの人が使われてしまっている状態です。もっと具体的に言えば、言語を通して、つまり言語によるレッテル貼りを通してした現実に接することができなくなっているのです。

残念ながら、私自身こうした自我の思考の牢獄から完全に解放されたとは言えませんが、言語を介さずに現実を直接体験することができていると感じる瞬間が少しずつ増えてきていたのが、今回の件で加速しました。

この5年間で主にハシディズムを通して学んだユダヤ流人生の知恵を活かし、生きる又とない成長の機会の始まりになっているのがまさに今です。エルサレムを離れた新天地でのこの先何年かもこうした機会がおそらくずっと続くことになるでしょう。