2023-09-01

エルサレムでの残された時間が限りあるものであることを意識するようになって悟るようになったこと

エルサレムでの残された時間と反比例して、意識の感度が加速度的に高まっていっているのを感じます。例えて言えば、白黒テレビから突然カラーテレビに切り替わったかのように、これまでおぼろげにしか見えていなかったことが突然鮮明に見えるようになったような感じでしょうか。

その最たるものは、自分にとって誰がそして何が本当に大切なのか、そして自分は誰にとって大切とされているのかをはっきりと悟ったことです。自分が大切だと思われていない人に、そして自分にとってどうでもいいことに時間を費やす余裕はないのに対して、突然あるいは改めて大切であることが分かった人たちに対しては時間と存在という今の自分にとっては最も高価なものを可能な限り惜しみなく与えるようにしています。

さらには、自分にとって大切かどうかということとは別に、これまだ交流のあった人たちも含めて色々な人たちの「素顔」、つまり意識の状態がこれまた鮮明に見えるようになりました。これに呼応するかのように、一気に(さらに)親しくなった人たちがいる一方で、一気に疎遠になった人たちもいます。

個々の「素顔」の違いを超えて多くの人に共通して見られる人類の集団的病とでも言うべきものにも短期間で繰り返し何度も何度も遭遇しました。言語を門番とする自我の思考の牢獄という集団的病です。本体道具であるべき言語に多くの人が使われてしまっている状態です。もっと具体的に言えば、言語を通して、つまり言語によるレッテル貼りを通してした現実に接することができなくなっているのです。

残念ながら、私自身こうした自我の思考の牢獄から完全に解放されたとは言えませんが、言語を介さずに現実を直接体験することができていると感じる瞬間が少しずつ増えてきていたのが、今回の件で加速しました。

この5年間で主にハシディズムを通して学んだユダヤ流人生の知恵を活かし、生きる又とない成長の機会の始まりになっているのがまさに今です。エルサレムを離れた新天地でのこの先何年かもこうした機会がおそらくずっと続くことになるでしょう。