2023-10-27

新天地のお知らせ

2023年10月7日以降イスラエルが戦争状態になる直前の9月末に偶然にもイスラエルを一旦離れ、長期間の予定で移り住むことになった新天地の具体的な地名を皆さんにも明かす時が来ました。結論を最初に言えば、魂がこの肉体を借りた今回の人生の旅での最初の「駅」となる日本の秋田県由利本荘市(周辺の由利郡7町村との合併以前の当時は本荘市)です。もっと一般的な表現を使えば、生まれ育った場所ということになります。

以下のような転居を経て、42年半振りに住むことになります。

  • 1963年3月~1981年3月: 秋田県本荘市
  • 1981年4月~1985年3月: 大阪府箕面市
  • 1985年4月~1987年7月: 京都府京都市
  • 1987年8月~1987年9月: 秋田県本荘市
  • 1987年10月~1993年7月: イスラエル・エルサレム
  • 1993年8月: 秋田県本荘市
  • 1993年9月~1994年3月: 東京都武蔵野市
  • 1994年4月~1998年3月: 大阪府豊中市
  • 1998年4月~2004年7月: 兵庫県神戸市
  • 2004年8月~2023年9月: イスラエル・エルサレム

エルサレムには5年間の留学時代そして帰化以降を合わせて24年間住んだ計算になります。まさか、エルサレムを離れることになろうとは自分でも夢にも思いませんでした。

この新天地を明かせなかったのは、日本のビザ取得までは観光客として入国しているからという事情があったからです。このビザも昨日無事に取得し、在留カードも発行してもらいました。これで晴れて日本でも仕事ができることになりました。

エルサレムを一旦離れて、日本に移り住むことにした理由を一言で言えば、大いなる何かに導かれてということになります。努力は惜しまないけれども、最終的には人生が送ってくる合図に聞き従い、抵抗することなくその流れに身を任せるということです。これは今回初めて、それも身をもって経験しました。流れに身を任せると決めてからは、自分でも不思議なくらい、ストレスもなく滑らかな人生になりました。

2018年5月に経験した離婚が契機となって、ある覚醒を経験しました。その結果、大学全般、特に言語研究に対する興味を完全に失い、終身在職権までもらっていたイスラエルの大学での仕事を定年を待たずに辞めたのが2020年9月末のことです。

これに先立つ2年間は最後の有給休暇をもらい、離婚の危機が始まった時にエルサレムで受けて人生が変わったユダヤ式ライフコーチングを大学早期辞職後の新しい仕事にしようと、研修を受けました。その後満を持して、大学を正式に辞めた2020年10月に日本在住日本語話者向けにオンラインでのユダヤ式ライフコーチングを始めました。

結局、この自営業だけでは物価が日本の約2倍のイスラエルで生計を立てることは叶わず、今年1月からはイスラエルのAI関係の会社で言語屋としての会社勤めの仕事をずっと探してみましたが、これも見つからず、最後の手段として思いついたのが、日本で1人暮らしをする母と同居するというものでした。

当初は、生活費をどうやって節約するかという自分勝手なことばかり考えていましたが、42年半振りに母と同居することになるのであれば、支えたいと思うようになりました。これが個人的な「使命」です。今振り返れば、イスラエルで仕事が見つからなかったのは、この「使命」を引き受ける以外選択肢を残さないという「大いなる何か」の導きだったと思えてなりません。

せっかく日本に住むことになったので、エルサレムで体系的に学び、その後実践も心がけてきたハバド派ハシディズムの教えを「ユダヤ流人生の知恵」として広めたいと思っています。物理的に日本にいるのといないのとでは大きな違いがあるはずです。ユダヤ流人生の知恵を皆さんにご紹介する様々な講座を主に、これ以外にも新生ユダヤ式ライフコーチングをもと思って、以前から計画を温めています。この詳細は来週ここでお知らせする予定です。

* 写真は由利本荘市の中で今住んでいる地区で早朝に撮ったものです。

PS: つながる

2023-10-20

人生で一番大切な借り物

皆さんは自分の物と誰かからの借り物とではどちらを大切に扱いますか。どちらも大切にするという方でも、どちらをより大切に扱うか、これまでのご自分の態度と行動を振り返ってみてください。

私はどちらも大切に扱うようにしていますが、どちらをより大切にするかと問われれば、借り物の方をより大切に扱っています。

残念ながら、借り物だからといって粗末に扱う人たちをたくさん見てきました。具体的な例は挙げませんが、皆さんもこのような例は何度も目にされてきたのではないでしょうか。

自分の物も借り物も大切にする人でも、そして借り物は大切にするけれども自分の物は大切にしないという人でも、これまで自分の物だと思っていたものが実は借り物であったらと知ったら、しかもそれが人生で一番大切な借り物だと知ったら、態度と行動を変えるでしょうか。皆さんはどうでしょうか。

この借り物とは、多くの人が自分の物だと思い込んでいる「自分の」体です。実はこれは借り物なのです。借り手は本当の自分である魂です。それが証拠に、魂が肉体を去れば、肉体は死んでしまいます。

皮肉にも、自分の物も借り物も大切にする場合でも、体が自分の物だと思いこんでいる人の多くが、残念ながら、この人生で一番大切な借り物を粗末に扱っているのをイスラエルでも日本でもずっと目にしてきました。

例えばマイモニデスといったユダヤ賢者が体の健康とその維持の大切さを力説しているにもかかわらず、伝統的なユダヤ文化では体の健康維持のために毎日投資するという習慣があまりありません。日本はこの点はるかにましなはずですが、それでも中高年となると、こうした投資を続けている人というのは少数派になってしまうことも体験的に知っています。

問と答からなる以下のようなユダヤジョークを考案して、エルサレムに住んでいた頃はたまに披露していました。日本だと通じるかどうか分かりませんが、イスラエルで話すといつも苦笑いされていました。あまりにも当たっているからです。

  • 問: イスラエルで一番人気のあるスポーツは何か。
  • 答: 食べることと話すこと。理想の組み合わせは食べながら話すこと。どちらも口の運動。

この人生で一番大切な借り物の維持のために口の運動以外は何もしていない人を見ると、それが親しい友人の場合見るに見かねて、エルサレムに住んでいる頃はこうした何人かにフィットネスコーチングを無料ボランティアとして伝授したことが何度もあります。

このテーマに関しては、10代終わりの頃から色々と本を読んだり、講習会を受けたりして、試行錯誤の実践も続けています。こうしてこれまでにたどり着いた結論とも言える、今私が毎日実践している運動は以下の通りです。

  • 体幹力を含む筋力の維持(と強化)のための自重筋力トレーニング: 平日の毎朝朝食前の約15分間
  • 持久力の維持(と強化)のためのランニング: 平日の毎朝朝食前の約20分間
  • 柔軟性の維持(と強化)のためのヨガ: 平日の毎晩就寝前の約15分間

これらのうちランニングとヨガは講習会を受けました。前者は ChiRunning を、後者は Iyengar Yoga をそれぞれ実践しています。

こういう話をすると、こんな時間を毎日取ることができないという反応が多くの人から返ってきます。でも毎日1時間もからないで、確実な「配当」が得られる投資は他にはないはずです。「配当」とは、特に筋肉を失って自分の体重が維持できなくなって転倒し寝たきりになり、寝たきりになるとさらに筋肉を失うという悪循環を避けられるか、遅らせられるというものです。

それに、こうした「配当」とは無関係に、人生で一番大切な借り物はできるだけ元の状態を維持し、貸し手に返すように務めるのが最低限の義務だとも私はずっと思って、上のような平日の運動を続けています。そしてこれは貸し手と借り物に対して感謝を示す方法だとも思っています。

2023-10-13

自我の思考の24時間生放送

特別な訓練を受けていない多くの人にとって、考えるという行為の多くは、例えば食べるといった意図的な行為よりも、呼吸するとか消化するといった自動的な行為により近いことは、少し考えてみればすぐに気づくことです。

思考の数をどうやって数えるのかという問題はさておき、私たちには1日に数万の思考が私たちの自由意思とは無関係に沸き起こると言われています。

こうした思考は自我に発するもので、私たちが経験する現実に対しての解釈という形を取ります。例えば、ヘブライ語を学んでいるということを誰かが話したとします。すると、なぜこの人がヘブライ語を学ぶのかといった憶測が頭の中でうごめき始めるはずです。

他の例を挙げれば、誰かが約束の時間になっても現れないとします。極端な場合、もうこの相手とは絶交してやるという思考とかも湧いてくるはずです。でも、実際にはこの遅れは何らかの不可避の事故のせいだったことが後になって分かることもあります。

前者の例ではそれほどでもありませんが、後者の例ではこうした自分の自由意志とは無関係に沸き起こる思考のせいで自分を苦しめる結果になっています。

これらの例はごく一部であって、私たちは自我の思考を24時間生放送している放送局を自分の中に設置しているようなものです。このせいで、経験する現実に解釈を挟まずにありのままに受け入れることができないようになっているのです。

人によっては、こうした自我の思考をわざわざ言葉に出して実況放送してくれる人もいます。例えば喫茶店での雑談とかは、こうした実況放送を相互に聞かせているというのが普通でしょう。

繰り返しますと、普通こうした自我の思考の24時間生放送は自分の自由意志とは行われるため、自分の自由意志で止めることもできません。呼吸や消化を自分の自由意志で止めることができないのと同じです。

しかし学びと訓練次第ではこれを止める、あるいは少なくとも減らすことができるようになり、自我の思考の生放送の間に内的静寂という隙間ができることにもなります。そして一旦この隙間の間隔を直接体験すれば、それからは自分の自由意志でその長さと頻度を増していくこともできるになります。

この内的静寂は思考停止ではありません。思考の燃料漏れ停止というのがより正確です。こうした燃料漏れがなくなることで、本当に考えなければいけない時に、思考の燃料を有効活用ができるようになるのです。

そして自我の思考の24時間生放送から内的静寂に移行していくことによって得れれる最大の恩恵は、否定的解釈によって自分自身に加えてきた苦難、つまり自我の思考の牢獄から自分を解放できることでしょう。

2023-10-06

集団洗脳

自分が集団洗脳をずっと受け続けてきたことを初めて自覚するようになったのは、それまでずっと聴いていたある国のある放送局が閉鎖されて、仕方なくその国の別の放送局を聴くようになってからです。今から約1年半前のことです。全世界に大きな影響を与えるある地政学的な問題についての両局の報道が両極端だったので、最初は混乱しました。どちらを信じていいか分からなかったからです。

この疑問に対する自分なりの答を探すべく、信頼できると思われた独立系のジャーナリストや地政学の専門家を芋づる式に何十人も見つけ、その後彼らの意見・分析を毎日結構な時間をかけて読んだり聴いたりしているうちに、それまで聴いてきたある国の閉鎖された放送局、そしてそれと基本的に同じ報道内容である西側のマスコミの報道は、公言できないある特定の集団の利害を擁護・推進するためのプロパガンダであると確信するに至りました。

西側のマスコミばかりを確認して、それを鵜呑みにしている人たちが例えばイスラエルでも大半です。例えば上述のある地政学的な問題についてこうした西側のマスコミが報道する内容(つまりプロパガンダ)とは真逆な私自身の意見をそういう連中に話しても、信じてもらえず、悪者扱いされるだけなので、沈黙するようになりました。

そしてかつての自分が集団洗脳を受け続けていたことに気づいていなかったように、集団洗脳を受け続けている人たちは普通誰も自分たちが集団洗脳を受け続けていることに気づいていないことにも気づくようになりました。そして集団洗脳はマスコミによるプロパガンダだけでなく、もっと巧妙な方法でも行われ続けていることにも気づくようになりました。

その最たるものが、自分が生まれ育った社会集団の慣習を学校教育を通して、そしてそこに暮らし続けることで周りから受ける影響を通して受け続ける集団洗脳です。いわゆる集団自我のこうした集団洗脳にはマスコミ以上に気づかないのが普通でしょう。自分たちでも知らない間に色々なことが刷り込まれ、その集団自我に都合がいいような発言も行動も無意識にするように大半の人はなってしまっています。

このことに自分で気づくことは至難の技です。プラトンの洞窟の寓話にあるように、一生洞窟の中でしか暮らしたことがない人たちに、ある偶然から洞窟の外の世界を見てしまった人が何を言っても信じてもらえないのと同じことです。

今回イスラエルを離れる際に気づくようになった、イスラエル社会(そしておそらく日本社会も含めた世界中の多くの社会)での集団洗脳の例としては、人生の目的は「成功」することであるという強迫観念、そして誰か・何かについてできる限り知らなければいけないという強迫観念です。

いわゆる「成功」というのは自我の視点であって、魂の視点からすれば、人生の目的は霊的成長です。そして誰か・何かについてできる限り知らなければいけないとするのも自我に発していると思われ、それは肉体という境界線で仕切られた個人という幻想の分離を維持していくためだと思われます。

そして社会による集団洗脳の中でも最も厄介なのは集団そして個人のアイデンティティーに関わるものです。つまり自分たちとは誰なのかについての集団洗脳です。集団としてのアイデンティティーの大きく貢献しているのがいわゆる国語と国史の教育です。これらを通して培われる国民意識は国を運営していくためには必要なものであることは認めるものの、基本的には集団自我の幻想にすぎません。

特定の国の公用語の教育を通してなされるこうした集団洗脳に他に、言語そのものは集団洗脳以外に個人レベルでの本当に厄介な洗脳という役割も担っています。自分は誰なのかという個人のアイデンティティーについての自我の幻想を植え付けるという役割です。

子供が言語を習得していく過程で自我という幻想が決定的なものになる段階が2つあります。第1は、親をはじめとして周りから呼ばれる名前が自分を指していることに気づき、その名前が自分だと思いこむようになった時です。第2は、「私」という言葉を覚えた時です。これによって自我、特にその思考の牢獄での一生が始まることになるのです。

もちろん、言語にはコミュニケーションの手段という大切な「光」の部分はありますが、自我という幻想を与え補強するという「闇」の部分があることも忘れてはいけないと思います。残念ながら、言語学では前者しか扱っていません。最近出版された「言語の本質」という新刊を読んでも、題名とは裏腹に著者たちは言語の本質の一面、つまり「光」の部分しか捉えておらず、「闇」の部分についてはおそらく自覚すらないのではないかという印象を受けました。

最後に、ここまで読んでいただいた皆さんの中には、それでは一体どうやってこうした集団自我そして個人自我の幻想に気づき、その支配から抜け出すことができるのだろうと思われた方もいるかもしれません。そのためのいくつかの方法の中で、私自身が直接体験して成果があったユダヤ教の非二元論としてのハシディズムの教えを「ユダヤ流人生の知恵」と称してこれから少しつづ日本の皆さんにも伝えていくことを人生第2のキャリアにしたいと思っています。

「ユダヤ教」、「非二元論」、「ハシディズム」と聞かれて、色々な先入観が浮かんで来るかもしれません。自我の思考によるレッテル貼りという先入観はできれば一先ず脇に置いて、皆さんにお伝えしていくことを内容本位に受け止めてもらえれば、私としてはありがたいです。