2024-04-19

ユダヤ流怒りの飼い慣らし方・ユダヤ流喜びに至る方法

怒りは一般に最も否定的な感情の1つとされています。怒り自体が精神衛生上有害であるだけでなく、怒りに支配されたまま自制心を失い、変なことをしたり言ったりしてしまうことで、取り返しのつかない害を自分にそして他人に加えてしまうということもめずらしいことではありません。

それでは怒りとは一体どこから来ているのでしょうか。ハシディズムが教える答の1つは傲慢さです。この教えによれば怒りは偶像崇拝の一種とすらされています。

しかし怒りは悪いことだらけではありません。怒りはある深いことを私たちに教えてようとしてくれているのです。それは背後に隠されたもっと深い感情です。この意味では、怒りは魂の叫びと呼ぶこともできます。

怒りの出どころとその深い意味を知ることで、怒りを飼い慣らし、引いては人間関係を飛躍的に完全することも夢ではありません。かく言う私自身、こうした教えに基づいて怒りを飼い慣らすことに成功した1人です。

今ではほとんど怒らなくなりました。ただし、唯一の例外があります。それは社会的不正に対して感じる怒りです。

怒りの対局にあるものの1つとして喜びというものを捉えられている方もおられるかもしれません。しかし両者の間には、否定性と肯定性という違いの他に、ある本質的な違いがあります。それは怒りは基本的には一時的な感情であるのに対して、喜びは恒常的な状態です。

怒りが中々収まらないというのは、怒りについて考え始めてしまうからです。思考が感情を固定してしまうのです。

喜びは恒常的な状態であるだけでなく、実は本当の自分の自然な状態でもあるのです。分かりやすい例えとして太陽とそれを覆う雲を考えてみてください。雲が出て太陽の光を覆い隠しているように私たちの目には見えることがあっても、太陽は常に光り輝いています。

太陽の光を覆い隠す雲に当たるのが様々な否定思考です。こうした否定思考を肯定思考に変えていくことで雲をケチらずだけでなく、そもそも雲がかからないようにすることが可能なのです。その最たるものが人生で遭遇する試練をどう受けとめるかを変えることです。

このようにして喜びを覆い隠している様々な雲を少しずつ取り払っていくことで、喜びを恒常的な状態にすることも夢ではありません。ここでもかく言う私自身、こうした教えに基づいて喜びという自然な状態を取り戻した1人です。

来月と再来月には「ユダヤ流怒りの飼い慣らし方・ユダヤ流喜びに至る方法」という講座を開講する予定です。上の言葉に何か感じるところがあり、自分を変えてみたいと思われる方はぜひご参加ください。

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2024-04-12

無知の無知から無知の知への移行

知るということには以下のような4つの種類があると言われています。

  • 自分が知っているということを知っている
  • 自分が知らないということを知っている
  • 自分が知らないということ自体を知らない
  • 自分がなぜ知っているのかが自分でも分からない

2つめは無知の知という言葉でも知られています。これに倣えば、3つめは無知の無知と呼ぶことができます。

無知の知の場合、自分の無知のせいで何らかの不利益を被っている可能性があるという問題意識があるので、その無知の対象の話を誰かからされれば、自分でもなるほどと理解できるのが普通です。

これに対して、無知の無知の場合、何らかの不利益を被っている可能性があるという問題意識がないので、その話をされても、なるほどとは理解できないのが普通です。

この私塾「ユダヤ流人生の知恵」で皆さんにご提供している色々な講座とコーチングの元になっているハシディズムという教えは、ユダヤ世界のおいてすら多くの人にとっては無知の無知に属するものです。

かく言う私自身、このハシディズムという教えについて同じ状態でした。それが様々な偶然が重なって、エルサレムに住み始めて10数年も経った数年前にこの教えに触れ、体系的に学ぶことになりました。

最初の衝撃は今でも忘れられません。自分が知らないということ自体ずっと知らないできたこれだけ深くて広い世界がずっと存在していたこと、そしてその脇を自分がずっと素通りしてきたことを悟ったからです。

この最初の衝撃の後に訪れたのは興奮と熱狂でした。エルサレムになる専門の学校でハシディズムを体系的に学び始めた頃は、友人・知人たちには誰でもこの教えのことを熱く語っていたものでした。

その後、こうした最初の興奮と熱狂は落ち着き、一種の安定飛行状態に移行しましたが、今でも1人で学び続けているハシディズムの教えにはいつも感銘を受けます。そしてその度に、この教えをもっと多くの人に知ってもらいたいという強い思いを感じます。

しかし残念ながら、この投稿の最初で簡単にご説明した通り、色々な人たちにも無知の無知から無知の知へと移行してもらうという無謀な試みは今のところ輝かしい成果を挙げられないでいるのが現状です。

私の場合、それまで色々な偏見を持っていたハシディズムの教えに関して、無知の無知から無知の知恵へと移行することができたのは、大きな試練を体験したおかげだという結論に達しつつあります。この試練のお陰で謙虚にならざるをえなかったからです。

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2024-04-05

常に待機状態のままで人生を終わらないために

先週の投稿でお話した「今を生きることの大切さ」に関連して、今を生きることを妨げることの中でも普通は気づかないでいることを1つ独立の投稿としてご紹介したいと思います。

日本には多そうな完璧主義が災いしてしまい、準備が完全に整うのを待つあまり、結局行動に移すことなく終わるという問題です。それではこの待機状態にある間、どこに行きているかというと、今を生きる代わりに自分の思考の中に生きているということになります。

前回の投稿でお話した過去の後悔と将来の不安という思考の中に生きているのとは異なりますが、今を生きていないという点では一緒です。

待機状態のままで人生を終わる極端だけれども珍しくもなさそうな例としては、今は嫌々ながら続けている仕事に対する一種のご褒美として、定年になったら自分の好きなことをしようという考え方です。例えば身体的健康といった定年前には想定していなかったような事情が生じてしまい、結局、定年後はその好きなことができないでしまったという例も何度も見たり聞いたりしてきました。

例えば仕事の分野で、今の仕事に代わる本当にやりたいことが見つかったのであれば、事情が許す限り、転職も考えてみるべきではないかと思います。私自身、そう痛感して、大学を早期辞職しました。単なる思考の産物で終わるだけかも知れない定年後の「安定」の代わりに、今を生きることを選択したと言うこともできます。

もし大学で定年まで勤め上げることにしていたとしたら、牢獄になってしまった職場に10年以上もの間囚われたまま、定年後の「安定」のためだけに今を生きることを犠牲にすることになっていたと思うと、今でもぞっとします。

このようにその後の人生を大きく左右するような場面以外の普段の生活でも、待機状態のままで、今を生きることを犠牲にしてしまっていることは色々あります。例えば、待ち合わせや乗り物の出発時間が近づいてくるとそわそわしだして、心が今にあらずという状態になることです。

日常生活でのこうした小さなことで今を生きることを犠牲にし続けていれば、それが積み重なって、常に待機状態のままで人生を終わってしまう危険性があることは想像に難くないはずです。これを避けるためには、旅は目的地に着くことだけでなく、道中を一瞬一瞬楽しむことも大切なのではないでしょうか。

PS: つながる