知るということには以下のような4つの種類があると言われています。
- 自分が知っているということを知っている
- 自分が知らないということを知っている
- 自分が知らないということ自体を知らない
- 自分がなぜ知っているのかが自分でも分からない
2つめは無知の知という言葉でも知られています。これに倣えば、3つめは無知の無知と呼ぶことができます。
無知の知の場合、自分の無知のせいで何らかの不利益を被っている可能性があるという問題意識があるので、その無知の対象の話を誰かからされれば、自分でもなるほどと理解できるのが普通です。
これに対して、無知の無知の場合、何らかの不利益を被っている可能性があるという問題意識がないので、その話をされても、なるほどとは理解できないのが普通です。
この私塾「ユダヤ流人生の知恵」で皆さんにご提供している色々な講座とコーチングの元になっているハシディズムという教えは、ユダヤ世界のおいてすら多くの人にとっては無知の無知に属するものです。
かく言う私自身、このハシディズムという教えについて同じ状態でした。それが様々な偶然が重なって、エルサレムに住み始めて10数年も経った数年前にこの教えに触れ、体系的に学ぶことになりました。
最初の衝撃は今でも忘れられません。自分が知らないということ自体ずっと知らないできたこれだけ深くて広い世界がずっと存在していたこと、そしてその脇を自分がずっと素通りしてきたことを悟ったからです。
この最初の衝撃の後に訪れたのは興奮と熱狂でした。エルサレムになる専門の学校でハシディズムを体系的に学び始めた頃は、友人・知人たちには誰でもこの教えのことを熱く語っていたものでした。
その後、こうした最初の興奮と熱狂は落ち着き、一種の安定飛行状態に移行しましたが、今でも1人で学び続けているハシディズムの教えにはいつも感銘を受けます。そしてその度に、この教えをもっと多くの人に知ってもらいたいという強い思いを感じます。
しかし残念ながら、この投稿の最初で簡単にご説明した通り、色々な人たちにも無知の無知から無知の知へと移行してもらうという無謀な試みは今のところ輝かしい成果を挙げられないでいるのが現状です。
私の場合、それまで色々な偏見を持っていたハシディズムの教えに関して、無知の無知から無知の知恵へと移行することができたのは、大きな試練を体験したおかげだという結論に達しつつあります。この試練のお陰で謙虚にならざるをえなかったからです。