2026-03-20

ユダヤ流ユーモア感覚が培う人生力

ユダヤ流ユーモア感覚そのものをどうやって身につけるかという問題はここでは扱わないことにして(講座という形で頭を通して身につくものではないことだけは実験から明らかになりました)、一旦身についたユダヤ流ユーモア感覚がどんな人生力を培い、それによって人生の荒波をどう切り抜けていけるかを、私自身の経験を元にごく簡単にご紹介してみます。

1 不確実性への寛容さ

ユダヤ流ユーモア(より正確には東欧ユダヤ流ユーモア)が育った環境は明日の見通しがいつも曖昧だった歴史の中です。この環境にどう対処してきたかというと、不確実性に対して身構える代わりに、まず笑いで距離を取ることです。

これによって、不確実性は脅威ではなくなり、代わりに、同居人のようになり、ひいては、「分からない?まあ、それも人生。」と軽く受け止められる寛容さが培われるようになるのです。

2 混乱の中で息づく力

混乱を敵とみなさず、むしろ、その真ん中に小さな仮小屋を建てるように、混乱の中で呼吸する術が身につくようになります。

これによって、混乱に飲まれないようにならず、むしろ、混乱の中でふっと息ができる力が自然に培われるのです。

3 アイデンティティを柔らかく保つ能力

ユダヤ流ユーモアの大きな特徴のひとつは、自分自身を笑いの対象にするということです。ただし、卑下にも傲慢にも傾かない独特の柔らかさを保っています。

こうして自分自身を笑うことで、どんな効能が自分にあるかというと、それはアイデンティティの硬さをほぐすことです。硬い自己像とは折れやすいものです。それに対して、柔らかい自己像とはしなりながら成長するものです。そしてユダヤ流ユーモアはこのしなやかさを培ってくれるのです。

4 プレッシャー下での遊び心

ユダヤ流ユーモアが本領を発揮する場面は最大のプレッシャーがかかる場面こそです。

状況が重くても、そこに小さなひねりやウィンクを差し込む力とは、現実逃避ではなく、精神の護身術のようなものです。ユダヤ流ユーモアの遊び心は、重さを軽さへと変換し、圧力が魂をすり減らすのを防いでくれ、これによって、逆境の中でも内側の光を固まらせず、流動性を保ってくれるのです。

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2026-03-13

自分のためか、他者のためか

ある集まりで最近知り合った人たちのやり取りの中で、自分の人生の最大の目的は楽しむことであるという同じ言葉を言ってくれた人が何人かいました。人生を楽しむこと自体は節度をわきまえ、本質を見失わないかぎりは否定すべきものではないはずです。

しかしこの言葉について考えれば考えるほど、楽しむことを人生の最大の目的にするのかどうだろうかという違和感は増す一方でした。この違和感がどこから来るのかについて、その後はっきりするようになりました。

少なくとも一般に言う人生を楽しむという考えは、絶えず変化していく外的要因に依存しすぎているであろうことが違和感の大きな理由のひとつです。私たちの中には誰にも変えることができない恒常的なものが眠っているのです。それは魂の自然な状態としての喜びです。真の喜びとは、外的要因が加わることで、生まれ、維持されていくものではなく、それを覆い隠しているものを取り除くことで湧き出てくるものです。

これ以上に大きな違和感の理由は、これまた一般に言う人生を楽しむという考えは、結局は自分のため、つまり自我の様々な欲求のいずれかを叶えることによって得られるものであろうことです。これまた、このこと自体は、節度をわきまえ、他者の犠牲の上に立ったものでないかぎり、基本的には否定すべきものではないはずです。

しかしこれだけで終わってしまうのでは、私たちがこの世に生を受けた意味、つまり人生の使命を全うすることにはつながらないことになります。そうなると人生というせっかくの機会を十分活用することなく終わってしまいかねないのは、残念すぎるとしか思えないのです。

人生の使命とは、他者のために何ができるかということだと言い換えることもできます。これまた残念ながら、自分の使命に気づくことなく、人生を終わってしまう人も少なくはずです。これだけ大切なものなのに、生まれてくる時にへその緒にでも人生の使命を書いてくれていればよさそうに思えるかもしれません。でも、人によってそれぞれことなる人生の使命を自分で見つけること自体がすべての人に共通な人生の使命であるという教えもあります。

自我の欲求を叶えることによって得られることが楽しみだとすれば、他者のために奉仕することは、魂の必要性を叶えることになり、それによって得られるものは喜びということになるのではないでしょうか。皆さんの中にはここである矛盾を感じられる方もおられるかもしれません。ここでの喜びは外的要因から来るものではないかという矛盾です。

しかしこれが矛盾と感じられるのは、自分と他者とが別物であるという自我の幻想のせいなのです。例えて言えば、海の波が空想上の境界線を作り上げて、自分と他の波とを分けるようなものです。実際は波は海の一部にすぎないのです。

ここでいう他者のために奉仕するとは、自我の幻想を打ち砕くことにもつながります。そうなると、本当の自分を覆い隠しているものを取り除くことになり、上で簡単に説明した通り、本来の状態である喜びが湧き出てくるということになり、矛盾もなくなります。

以上、ここで言う楽しみと喜びは本質的に異なるものであることがお分かりいただけたことを願っています。いずれにせよ、人生のいずれかの段階で、楽しみから喜びへ移行することができれば、しめたものです。その後の人生はまったく別の意味を持ち始めることになるはずだからです。海にようこそ。と言っても、もともと海の一部のままであり続けていたのですがね。(笑)

PS: つながる

2026-03-06

ユダヤ古典文献の翻訳を通した将来の日本への投資

複数の言語を学び、知っていると言うと、大体決まって返ってくる言葉のひとつが、翻訳をしているか、あるいは翻訳をしたら、というものです。確かに、金銭的必要に迫られて翻訳(そして通訳)をしたことはこれまで何度もありましたが、自ら進んでやりたいと思える仕事ではありませんでした。それが、ある偶然が重なって、ある翻訳を頼まれて引き受けることになり、翻訳に対する味方が大きく変わりました。そして今後ずっと続けていきたいとすら思うようになったのです。

2024年の末頃、ユダヤ流人生の知恵ということで日本に伝えようとしている教えを伝えるためにも効果的な方法としてハシディズムの説話の力を痛感していたところに、早期辞職したイスラエルのかつての職場の同僚から、ハシディズムの有名な古典的説話(より正確には寓話)集をヘブライ語(とイディッシュ語)の原典から日本語に翻訳しないかと頼まれたのです。

これは願ったり叶ったりのことで、責任の重さを感じつつも、引き受けることを即決しました。その後、2024年12月末から1日3時間、週4日という速度で進め、全部を翻訳し終えたのが7ヶ月後、そして全部の文体を磨き直し終えたのがさらに7ヶ月後の2026年2月末でした。これからは日本の出版社探しが待っています。

この寓話集は単なる翻訳の域を超えて、ヘブライ語とイディッシュ語の原典をそれぞれの言葉の響きを含めて深く読み込む必要があったため、その内容に深い影響と感銘を受けました。そしてこの翻訳をしている間に浮かんだ思いが、翻訳を終える頃までには確信に変わりました。

それは、ユダヤ古典文献、より正確には、日本に伝えたいと思ってきたユダヤ流人生の知恵の元になっているハシディズムの教えのさらに元になっている古典文献をヘブライ語(とイディッシュ語)から日本語に翻訳することを通して将来の日本に投資するということです。

なぜ将来の日本かというと、これまで数年にわたる試行錯誤の結果、この知恵をもっと多くの人が受け入れてくれるための器が、残念ながら今の日本にはまだ整っていないと結論付けざるをえないからです。こればかりは間違っているといいのですが。

翻訳、それもしかるべき信頼できる出版社から出したものであれば、こうした古典文献に興味を持ってくれて、ひいてはそれに基づいた教えにも興味を持ってくれるような器を備えた人たちが現れるまで、辛抱強くずっと待っていてくれると思ったからです。

こう考えて、もう次に翻訳したいと以前からずっと目をつけていたある古典文献を最終的に決めました。上の寓話集を翻訳し終えてすぐに神戸に出かける機会があって、その際にはずっとお世話になってきた神戸在住のラビとこの件について相談したところ、精神的な支援だけでなく、もっと実質的な支援まで提案してもらい、大きく励まされると共に、責任の重さも改めて痛感しつつ、ラビの元を後にしました。

PS: つながる