42年半ぶりに住むことになった秋田県由利本荘市にある小学校で、校長先生のご計らいにより、6年生を対象に講話をするという貴重な機会を昨日持ちました。この小学校は、人口減少のため廃校になった私が通った小学校と近隣の2つの小学校を統合して誕生した小学校なので、ある意味では母校と言うこともできます。
1)自分のことを知る、2)自分以外も視野を広げる、3)平和への思いに触れる、4)言語の学び方、という4つの大きなテーマを45分間の講話に組み込んでほしいという依頼をこの6年生の担任の先生から事前に受けました。4つ目のテーマだけは、なぜ言語学の仕事を辞めたかというテーマに変えてて、最初に講話への導入とし、これからの発展として、最初の3つのテーマについて、小学校6年生でも分かってもらえるように寓話を、そして楽しく聞いてもらえるように即興のユーモアをそれぞれ途中に散りばめて、何とかこの難題を乗り切りました。
この講話で伝えたかったメッセージはこの私塾「ユダヤ流人生の知恵」で伝えたいと思っていることとも重なるので、講話の内容を大人向けにまとめて、皆さんにもご紹介することにしました。以下はその文章です。
なぜ言語学の仕事を辞めたか
私の中学時代の夢の1つは多言語を使えるようになることでした。この夢が叶っただけでなく、学んだ言語の1つであるヘブライ語を研究する仕事、つまり言語学者を30年近く続け、そのうち最後の16年間はイスラエルの大学でヘブライ語母語話者の学生にヘブライ語学を教え研究するという仕事をしていました。
言ってみれば、「夢の仕事」とでも言えるようなこの仕事を定年を待たずして自らの意志で辞めたのは、言語学が教える言語の「光」だけでなく、言語学は扱わない(そして扱えない)言語の「闇」を自覚してしまったからです。これは離婚を契機に始まった霊的覚醒の一部です。
言語が果たす最も大切な役割の1つはレッテル貼りです。人であれ物であれ、あるいはその一部であれ、範囲を限定して命名、つまりレッテル貼りをすることで、現実との乖離が起こります。。結果として、言語によるレッテル貼りを通して誰かあるいは何かについて知れば知るほど、その誰かあるいは何かを知ることからは遠のいていってしまうということが起こるのです。
言語を使って、言語自体の制約を説明しようとしているので、言語のこうした「闇」の意図が皆さんにどこまで伝わっているか自信がありません。
自分のことを知る
自分のことを本当に知る上で最大の障害になるのが、自分自身で貼った、あるいは他人によって貼られた言語のレッテルです。その最たるものが名前です。「あなたは誰ですか」という質問に対して、まずは名前を言う人が少なくありませんが、名前は本当の自分ではありません。
本当の自分とは自分自身で貼った、あるいは他人によって貼られた言語のレッテルをすべて剥ぎ取った時に残るものです。それではそれは一体何なのでしょうか。
この問に対する答はある直接体験を通して得ることができるのですが、この直接体験を持ったことがない人に言葉だけで答を言っても、かえって混乱するだけで、ますます分からなくなってしまうでしょう。例えば、愛を経験したことがない人に、愛を経験した人が愛とは何かを言葉だけで伝えようとしても、伝わらないとの同じことです。
自分以外も視野を広げる
他者を知る上でも大きな障害になるのが、やはり言語によるレッテル貼りです。相手の出自・外見・学歴・職業といったものを自分の頭の中で言語化し、その色メガネを通して相手も見てしまうのです。
そしてこうしたレッテル貼りの問題は個人の場合よりも例えば民族や国といった社会集団の場合さらに深刻になります。民族間あるいは国家間の紛争・戦争の究極の原因は社会集団にレッテル貼りをして、その構成員すべてを偏見で見ることにあるというのが、今の私の個人的な考えです。
私がイスラエル国籍だというだけで、レッテル貼りをして、イスラエル軍がやっていることの責任を私にも押し付けるようなコメントをフェイスブックではもう何度か受けました。こうした心ないコメントを残す人たちは、自分たちがやっているレッテル貼りが戦争の根本的な原因であることにはどうも気づいていないようです。
平和への思いに触れる
民族間あるいは国家間の紛争・戦争がなくなった状態を世界平和だと仮に呼ぶことにすれば、その実現のために必要なことは、社会集団レベルでも個人レベルでも、まずはレッテル貼りをやめることでしょう。
こうしたレッテル貼りをやめるのは簡単ではありません。言語の本質がレッテル貼りである以上、言語を無意識に使い続けていれば、自然にレッテル貼りをしてしまうだけでなく、レッテル貼りをしているということ自体に自覚すらないのが普通です。
こう考えると、言語を使っているようで、実際には言語に使われているのです。レッテル貼りは思考の牢獄のようなもので、言語はさしずめその門番です。言語に使われないようになって、レッテル貼りをやめ、思考の牢獄から自分を解放するための方法として、言語学はあまりにも無力です。言語学とは、言ってみれば思考の牢獄内の世界で行われていることだからです。
霊的覚醒を経験し始めるようになった結果、そしてこの過程で出会った霊的教えを通して、まずは思考の牢獄の囚人であったことを自覚し、次には少しずつ解放されていくことができました。これは個人レベルの平和ということもできるでしょう。こうした自分の内的平和に至る方法を日本の皆さんにもどうしても伝えたいと思って立ち上げたのが「ユダヤ流人生の知恵」という私塾です。