2024-01-19

ユダヤ流聖書注解の例 アダムとイブが善悪を知る木から食べてしまう話

聖書を読まれたことがない方でも、創世記の中に出てくるアダムとイブが善悪を知る木から食べてしまう話はおそらくどこかで聞かれたことがあるはずです。

今月から始めた「ユダヤ流聖書注解入門」という毎週1回のオンライン講座では、私がエルサレムでハシディズムを習った恩師たちの恩師に当たるある高名なラビの注解をご紹介しています。そして知識を増やすのではなく、人間の内面性にまで掘り下げた注解から私たちの自我と魂の対立の問題について学び、その学びを普段の生活を変えていくために活かしてもらうことを目指しています。

それではこの師の注解によれば、この話から私たちは何を学べるのでしょうか。それは、この行為によって象徴的に表されている変化の本質とは一体何であり、その前と後で何がどう変わったのか、そして変化の後で生まれた問題を解決するためには何をしたらいいのかということです。

問題の本質は自意識が生まれてしまい、これによって自我に支配されるようになってしまったことです。一般に誤解されているように自我自体が一方的に悪いというわけではありません。ただし自我は矯正する必要があり、しかも自我を矯正するには準備段階が必要になります。

第1段階は食べる前の状態で、他の動物そして生まれたばかりの人間の子供が置かれている段階です。これは自意識の欠如という段階です。ペットや赤ちゃんを観察すれば分かるように、自意識がないということは悪いことだけでなく良いこともあります。それは自分が独立した存在であるという意識がないので周囲と調和しているということと、恥の念といった(特に否定的な)思考の牢獄に囚われていないので自然体でいられるということです。

第2段階は食べた後の状態で、人類の大多数が置かれている段階です。これは自意識という段階です。自意識が生まれたことが決定的になる言語習得の2段階があります。それは親や周囲から呼ばれる名前を自分と結びつけるようになった時と1人称単数代名詞(「私」等)を自分と結びつけるようになった時です。これによって自我による支配が決定的になります。自意識を持たない状態の利点が逆が自意識を持った状態の欠点ということになります。それは自分が独立した存在であるという意識を持つようになるで周囲と不協和音が生じるということと、自我の思考の牢獄に囚われるようになるので本来善であるはずのもの(の一部)が悪に見えてくることです。

自我とは本来幻想にすぎないので、それから発した自意識の維持のためは自我の絶え間ない補強作業が必要になります。その代表的なものは他者からの承認を求め続けることです。フェイスブックで多くの個人ユーザーがその投稿でやっていることの多くがこれです。自意識の犠牲者になるのは、まずは本当の意味での謙虚さで、自己溺愛に墜落する危険性を孕んでいます。次に五感です。このため鈍った五感を刺激するためのものを常に探し求めるということになります。その極端な例が依存症です。

人類の一部は様々な理由・方法から覚醒、つまり自我の死あるいは壊滅的打撃を経験することで第3段階後の状態に至ります。神的意識と呼ばれるものです。これは自我をなくし、言ってみれば意識では「宇宙」の一部になるということです。例えて言えば、幻想に過ぎない独立した波であることをやめ、意識では海の一部になるということです。

それでは自我をどうやってなくすには、あるいは自我が幻想であることに気づくにはどうしたらいいのでしょうか。代表的な方法としては、知性を通することになるハシディズム(および他の非二元論)の学びと内省および瞑想が、心を通すことになる祈りが、そして肉体を通すことになる行動が挙げられます。

自我がなくなった、あるいは自我に支配されなくなったことを確認するために有効は方法は自分に起きていることがすべてが善に見えるかどうかです。見えないとすれば、自我の「雲」が善を覆い隠していることになります。つまり、世界が汚れているように見える場合、世界を見る自分の「メガネ」が汚れているだけだったのです。

ただ、この第3段階の神的意識にはある大きな問題点があります。それは自我がなくなってしまったら、魂が肉体を借りて現世に来ている意味がなくなってしまうということです。つまり、現世での私たちは純粋に霊的な存在だけではないのです。このように考えると、一見すると最終段階のように見えるこの段階は準備段階にすぎないことが分かります。

最終段階となる第4段階は上2つの段階、つまり自意識と神的意識が融合した状態です。これは 矯正自意識という段階です。魂は肉体を直接制御することはできません。直接制御は自我にしかできないのです。自我を否定する代わりに自我を飼い慣らすことで、肉体の支配を巡って魂と争っていた自我を魂の助っ人にするのです。矯正自我意識をどうやって内在化させるかというのはとても大きな問題でここでは書ききれないだけでなく、授業では口頭で簡単には説明したもののの文字化してしまうと誤解される危険性が高く、この誤解自体が危険なので、文字化は避けておきます。

今回その初回分をご紹介したこの「ユダヤ流聖書注解入門」という講座は、約1年間でモーセ五書全体をカバーする予定ですが、いつからでも参加が可能です(それまでの分は文字にまとめた要約をお送りします)。

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