私たちが常に若さを称賛し、それが望ましいものすべての象徴にどうやってなったのかを考えてみてください。このことは、高齢者、ひいては社会一般に対して明らかに士気を低下させる効果があります。もし私たちが、知識や知恵よりも、あるいは経験豊かな魂の霊的活力よりも、若者の肉体的活力を評価するというのならば、これは私たちの価値基準について何を物語っているのでしょうか。
聖書には、老いは美徳であり、祝福であると書かれています。学問や信心深さに関係なく、すべての老人を尊敬しなさいということです。なぜなら、どんなに優秀な若者にもまだ持ち得ない知恵と経験を人生の1年1年がもたらしてくれるからです。
しかし、多くの社会では高齢者は負担とみなされるようになっています。若者ならば、年長者から学ぶ代わりに、自らの失敗から学ぶことにこだわり、ビジネスから行政まであらゆる分野で若さが最高の信頼条件とされています。
確かに、物質優先の人生であれば、肉体の衰えは精神の衰え、つまり退屈・無益・絶望への転落を意味するのかもしれません。しかし肉体を魂の付属物と考えると、逆に、老化に伴う霊的成長が肉体を活性化させると考えることができます。そしてこう考えれば、物質的な利益の追求が頂点に達する中年期には、人生の優先順位を変えていくこともできるのです。
引退という考え方は、人生は生産的な期間と非生産的な期間で構成されているという考え方に根ざしています。しかし、生を授けられ続けているということは、その人がまだ人生の使命を終えていないということであり、この世で成し遂げなければならないことがまだ残っているということなのです。