2026-02-06

日本では多くの人が一体何にびくびくしながら話しているのか

言語を切り替えることは、単に記号を切り替えることだけではありません。いくら正しい語を正しい文法で使っても、その言語が使われている社会の規則に従わない使い方は、文法的には正しくても、社会文法的には間違っているということになります。

19年ぶりにまた日本に住むようになって2年ちょっとになります。「~します」と言えばいいように私には思われる場合でも、「~させていただきます」という言うのがこれまで浸透し、日本語の社会文法の一部と化してしまったのは一体いつからなのでしょうか。

日本(語)だけで生活している多くの人にはおそらく気づかず、そうなると、こうした表現もおそらく無意識に自動的に使っているものと想像されます。多言語での生活を日本でも続けている私としては、今自分が話している、あるいは聞いている言語の社会文法を他言語の社会文法と比較してしまうことが第二の点線のようなものになってしまいました。最初は無意識にやっていましたが、今は自分の頭の中で瞬時に行われるこうした比較を自分で意識しながら行うようにもなりました。

「~させていただきます」に代表されるような、一見すると謙虚さを表すはずの表現は、一皮むけば、その奥には恐怖が隠れていることを感じます。だから、こうした「謙虚な」表現を使っている人たちに接すると、一体何にびくびくしながら話しているのだろうと、思わず勝手な心配をしてしまいます。

これについては、この2年間だけでなくそれ以前からもずっと観察を続け、考え続けてきました。2年ちょっと前に日本に移り住む前は仮説だったものが、この2年間で確信に近づくようになりました。

こうした「謙虚さ」とは、他人にどう思われるか、そしてそれによって他人から何か言われてしまうのではないかということに対する漠然とした無意識の恐怖が言葉に表れたもののはずです。実際、こうした「謙虚な」表現に接すると、エネルギーを吸い取られるような思いになってしまいます。

しかし同時に、そんなにびくびくしなくても、もっと自信を持って堂々と話せばいいのではないかと、これまた余計な心配までしてしまいます。こうした話し方をしている人たちの中には、恐怖心の牢獄とでも言うべきこの状態から抜け出したいと思いつつも、抜け出せないでいる人たちも少なくないかもしれません。

他方で、もちろん、こうは感じないまでも、社会文法の一部としてこうした表現を無意識に使い続けている人も多いはずです。でも、問題なのは、こうした表現を使い続けていると、それに言っていれば「染まって」しまうことです。つまり、同じ言葉を繰り返し言ういことで、思考まで書き換えられてしまうのです。

こうした言葉の海で懸命に奮闘している人たちを見ると、つい助け舟を出したくなってしまい、思わず差し出すのが即興のユダヤ流ジョークです。ぎこちない「泳ぎ」になっているところに、遊び心を持ち込むことで、一時的とはいえ、楽な「泳ぎ」に戻ってもらうというものです。この効果は、私自身でも驚くほど、てきめんです。

これに味をしめ(笑)、普段の生活では、全く面識のない人たちも含めて、出会った人、そして場合によってはすれ違っただけの人にも、日本での一種の任務かなとも思って、これを応用しています。そして喜びとは、特別な場合だけの「贅沢品」ではなく、本当の自分の自然な状態であることも、言葉だけでではなく、それに伴うエネルギーを通して伝えられればとも願いつつ、ユーモアの「おすそわけ」を続けさせていただいております。(笑)

PS: つながる