口は1つしかないのに、耳は2つあるのは、話す2倍聴く必要があるからだというユダヤの教えがあります。それなのに、話し方もさることながら、聴き方となると、体系的に習った経験をお持ちの方はごくまれではないでしょうか。ここで言う聴き方とは、他言語学習の一部としての聴解力養成のためのものではありません。
かく言う私自身、どれだけいい加減な聴き方をずっとしてきたかを思い知らされた経験をしたことがあります。それはエルサレムでユダヤ式ライフコーチングを学んだ時です。コーチングとは傾聴力、そしてそれに基づいた質問力であることを身を以て学びました。とは言うものの、傾聴力の方は完成の域からはまだ遠いのが現状です。
聴き方の理想である傾聴とは何かを(再)確認する前に、何が傾聴ではないのか、つまりどういう聴き方をすることで傾聴が妨げられているのかという、聴き方の前段階4つをまずは(再)確認したいと思います。
第1段階は相手の話を途中で遮ることです。相手が話し終わるまで聴かず、その話の途中で自分の話をし始めることです。日本ではこれは比較的少ないかもしれませんが、ユダヤ世界ではこれはとてもよくあることです。ユダヤ的な対話とは、2つの独り言が同時進行しているものというジョークもあるくらいです。相手の話を途中で遮ることが自分の知性の証とみなす風潮もありそうです。
第2段階は相手の話を乗っ取ることです。相手がしている話を、多くはその話題自体を変えて、自分が続けることです。これは日本でもけっこうありますね。例えば、飲み会に同席した人の誰がどんな話を始めても、最後には自分の話に持って行く人が。これは1対1の会話でも当てはまることです。
第3段階は相手から頼まれてもいない助言をしてしまうことです。これは日本を含めて、おそらく世界中で本当によくある聴き方のはずです。一見すると逆説的ながら、その話題について知らなければ知らないほど、それについて助言をする場合が多いという相関関係にも気づきました。
第4段階は相手の話を聴いているようで、実は、相手の話が終わったら自分は何を言おうかと、相手の話の間にずっと考え続けていることです。いわゆるマルチタスキングは一種の神話です。同時に2つ以上のことに本当に集中することはできないように人間の脳はできています。そうなると当然、何を言おうか考え続けていると、見かけは聴いているようでも、相手の話を本当に聴くどころではなくなります。
そして理想の段階である第5段階が傾聴です。上の4つの段階どれでもない聴き方になります。少なくとも理想の状態では、自分の思考を一旦棚上げにして、相手の話だけ集中し、それを聴いてどうするかではなく、それを聴くこと自体が唯一の目的となります。自分の全存在を相手に捧げる聴き方だとも言えるでしょう。この聴き方はほんとうにまれなので、それができるようになれば、対人コミュニケーションにおける貴重な資産にすらなるくらいです。おもしろいことに、これを続けてるうちに、一旦棚上げするつもりでいた思考自体が、少なくとも傾聴の間は(そして往々にしてそれ以外の場合でも)、そもそも浮かんで来なくなります。