沈黙には2種類あることに少し前に気づき、その後観察を続けているうちに、これが確信に変わりました。自我の沈黙と魂の沈黙です。表面上は同じに見えますが、それぞれを生み出しているものは全く異なります。そして今自分が遭遇している相手の沈黙がどちらなのかは、普通であれば直感的にすぐに分かるはずです。
自我の沈黙とは、他人に対するレッテル貼りを言葉にしたり、頼まれていない助言を他人にしたりと、普段は饒舌な自我が、窮地に追い込まれて言葉を失い、沈黙以外に選択肢がなくなった状態です。理性の下に来る沈黙と言うこともできるでしょう。
これに対して、魂の沈黙とは、雄大な自然の前に立ったり、他人の突然の不幸を直接本人から聞かされたりと、言葉の無力さを感じ、魂の「母語」とも言える沈黙に戻った状態です。理性を超越した沈黙と言うこともできるでしょう。
ここで自我の沈黙と呼ぶものの色々な発露にはずっといらいらさせられて来たものですが、自我の本質を学び、自我の束縛から自らを解放することの難しさを身を持って経験するうちに、こうした自我の沈黙に対しても以前より忍耐強くなり、思いやりすら生まれるようになってきました。
ここで魂の沈黙と呼ぶものに初めてはっきりと気づいたのは比較的最近です。2023年9月末にエルサレムを離れる2ヶ月前に、19年間住んだアパートのお隣さんが建物の前に一人沈み込んで座っているのを見ました。お隣さんとはいえ、それまでは挨拶を交わす程度で、深い話をする機会はありませんでした。
何かあったのだろうかと心配して思わず声をかけてみると、末期がんを宣告されたことを話してくれました。ここでどんな言葉をかけても虚しく響くだけだと悟り、彼女をやさしく抱きかかえ、それから沈黙のまましばらく一緒に座っていました。
この沈黙によって、思いがけないことが起こりました。一気に深いつながりが生まれたのです。レッテル貼りや頼まれない助言といった自我の思考の産物である言葉が一掃されことで生まれたこの沈黙によって、魂と霊が垣根なく触れ合うことになったのでしょう。
ちなみに、沈黙についてこれだけ饒舌に語る人は皆さんも見たことがないでしょう。(笑)