2024-03-15

自我の思考という牢獄の門番としての言語

本来であれば単一で不可分であるはずの世界を「分節」し、レッテル貼りをすることが言語の根本的な機能のひとつであると言えるでしょう。これは言語の本質の闇の部分とでも言えるかも知れません。

この「分節」の仕方は言語によって異なりますが、世界が「分節」され、それによってレッテル貼りがなされるという点ではすべて共通です。例えば、本来無数の色が含まれているはずの虹には何色あるのかということは言語・文化によって異なっています。

皮肉にも、ある言語を自在に操れるようになればなるほど、その言語によるレッテル貼りは自動化・無意識化されることになります。これによって、言語を使いこなしているようで、実際には言語に使われているということになります。

レッテル貼りは自分自身、人、物だけに限らず、人生で経験する様々な経験にも当てはまります。例えば、誰かに何かを言われたりされたりした時に、普通であれば、それに自動的に価値判断を下し、無意識に何らかの思考が湧いてきます。例えば、怒りです。人生経験という「物語」へのレッテル貼りと言うこともできるでしょう。

これは他の動物にはおそらくない人間だけの特徴なはずです。人間が言語という道具を獲得した大きな代償とも言えるはずです。人間に長い間飼われて、ある意味で人間化したペットにはあるのかもしれませんが、例えば、否定的な思考をずっと抱き続けた結果、ノイローゼになるとか胃潰瘍になるとかというのは人間だけに起こるのではないでしょうか。

この意味で、言語には自我の思考という牢獄の門番という役割もあると言えるでしょう。かつての私自身も含めて、多くの人はこうした牢獄に囚われているだけでなく、その事実自体にも気づいていません。数年前に自分が思考の牢獄の囚人であることに初めて気づいてから、同僚の言語学者たちを注意深く観察し続けていたところ、思考の牢獄でも同僚だったことが分かりました。;-)

しかしこの牢獄にいることは終身刑ではありません。そこから自らを解放することも可能です。そのための第1歩は自分がそこに囚われているということを自覚することです。

元「囚人」として、自分だけでなく周りを苦しめ続けてきた者としては、こうした思考の牢獄に囚われて、苦しんでいる人たちが自らを解放する手助けになりたいと思って、大学を早期辞職してエルサレムで始めたのがユダヤ式ライフコーチングでした。その後日本に移り住むことになって始めた「ユダヤ流人生の知恵」という私塾も同じ意図を持つものです。

PS: つながる