2026-01-23

生きた言葉と死んだ言葉

私の瞑想の最初の先生に当たる人が自分の先生の新刊の冒頭に寄せていた言葉が今でもときおり頭に浮かんできます。彼は言語学者でないにもかかわらず、あるいは言語学者でないからこそ、言語の本質を見抜いた言葉だという思いが強まる一方だからです。この言葉というのは、言葉には生きた言葉と死んだ言葉があるというものです。

これら両者の違いを私自身の経験と自省に基づいて簡単な言葉で言い換えれば、生きた言葉とは心あるいは魂にまで響き染みわたる言葉であるのに対して、死んだ言葉とは頭だけで止まってしまう言葉ということになるでしょう。

さらに、そしてかなり乱暴な一般化をして、言い換えれば、少なくとも私にとっては、生きた言葉とはそれに触れた人の人生の知恵を培ってくれるものであるのに対して、死んだ言葉とは知識が増えるだけで終わる言葉です。

この差はどこから来るのかというと、生きた言葉は実際の人生体験に基づいているのに対して、死んだ言葉は実際の人生体験に基づかず、頭だけで考えたものだというものだというのが、これまで両者の言葉を観察し続けての結論です。

例えば、愛を実際に経験したことがない人が、いくら愛について言葉を尽くして語っても、それが精巧であればあるほど、少なくとも私には虚しく響きます。同じことは特に人生において本当に大切な多くのことにもあてはまるでしょう。

死んだ言葉が何かについて語っていることが多いのに対して、生きた言葉は何かそのものを語るのが普通です。こう考えると、大学時代に生き残りをかけて書き続けざるをえなかった研究論文は、死んだ言葉を量産し続けてきたことだと今では思わざるをえません。

ここで言う死んだ言葉とは、言ってみれば食品サンプルのようなものです。サンプルは本物ではないにもかかわらず、それが精巧であればあるほど、それを作った本人も、そしてまわりも、それが本物の食品だと勘違いしてしまう危険性があります。

挙句の果てには、こうした死んだ言葉をまとめて本にしたものが賞をもらったりしているのを何度も見ると、毎回複雑な思いにかられてしまいます。特にこうした本が扱っている内容というのが、私自身が直接体験をし続けていることで、著者は直接体験していない、あるいはできない場合、私の思いはさらに複雑なものになります。

もちろん、知識がすべて悪いというわけではありませんし、知識を得るための読書は今でも続けています。でも、直接体験に基づかずに、頭だけで考えて、何かについて書かれた知識とはあくまで食品サンプルにすぎないことは常に忘れないようにと自分にいつも言い聞かせています。そしてその現物を食べる機会があるのであれば、当然ながらそれを優先しています。

PS: つながる