ハシディズムの教えに「闇から出た光は、光から出た光より明るい」というものがあります。この教えは何通りもの解釈が可能ですが、人生に当てはめてみれば、「試練を克服した結果手にした成果は、何もしないでそのまま手にした成果よりもありがたみがある」と解釈することが可能です。
そしてこの解釈の究極の例は、魂が肉体を借り、自我を抱き合わせられて、この物質世界にやってくることで経験することから得られる学びと成長の大きさです。
ここから分かるのは、人生の様々な分野で、対比によってこそ明確さが得られるといういうことです。そして究極の対比は闇と光だということになります。
ある分野で、ひとつしか選択肢を知らないまま生き続けるということは、例えて言えば、生まれ育った洞窟から出たことがなく、その洞窟が全世界だと思っているようなものです。そしてこの洞窟自体が比喩です。こうした「洞窟」の代表例を考えてみましょう。
まずは言語です。母語だけしか知らずに人生を送るのと、母語以外の他言語を1つでも学ぶのとでは、世界が見える明確さが根本的に変わってきます。言語はそれぞれ世界を違った形で分節します。分かりやすい例えで言えば、本来無限の色がある虹は何色かというのは、言語で違っているのです。
ただし、1つの他言語だけで満足してしまうと、2つの言語だけの対比にとどまってしまうので、2つ以上の他言語を学んだ場合に比べると、言語間の対比から得られる明確さはかなり劣ります。例えば、英語しか他言語を知らない日本語母語話者と、英語以外の他言語も知っている日本語母語話者とでは、それぞれの視野と視点には量的にも質的にも大きな違いが出てきます。
この違い自体も対比によって気づかされたことです。それは、様々な言語の先生や研究者を観察することが結果として対比につながったことでです。
一般に、英語の専門家は英語だけで満足してしまい、英語以外の他言語を学ぶ場合はまれになってしまいます。これに対して、変わった言語の専門家ほど、大言語から小言語まで様々な他言語を学んている可能性が高まる確率が高まることも経験的に学びました。
複数の言語を学び、知ることによって可能になる対比によって得られる明確さは、言語以外の様々な分野にも当てはまります。今すぐに思いつく例としては、文化、同じ分野についての教え、同じテーマについて本が挙げられます。
文化については、言語との類推でおそらくすぐに分かっていただけるでしょう。一言だけ簡単に補足説明すれば、生まれ育った日本文化しか知らない人よりも、それ以外の文化を直接体験した人の方が、それぞれに文化がよく見え、分かるようになるということです。
ただ、現実問題として、複数の言語を学んだり、複数の文化を直接体験することは誰もができるわけではないことも真実です。でも、同じ分野について存在している教えは1つだけに限定せずに複数に触れてみるとか、同じテーマについて書かれた本は1冊だけに限定せずに複数読んでみるとかは、多少の努力と時間を惜しまなければ、誰にでもできることでしょう。
これによって得られる対比、そしてその対比から得られる明確さは、投資した努力と時間を大きく上回るものです。この点自体、対比によって得られた明確さです。