2026-03-27

集団自我による人類の「平等」

2023年10月から約19年ぶりに日本にまた住むようになった当初にすぐ感じ、その後は強まる一方の思いがあります。それは国と文化の違いを超えて、世界のどこでも多くの人たちは同じだということです。ただし、肯定的な平等ではなく、否定的な「平等」です。それは集団自我による人類の「平等」です。

個人に自我があるように、社会集団にも自我があり、それぞれ個人自我、集団自我と呼ばれています。自我の言う場合、普通前者を指します。後者については英語でですら、詳しい解説はこれまであまり目にしていません。

集団自我とは、一言で言えば、ある社会集団が自らの存続を守るための本能のようなものです。そのためのメカニズムのうちで、普通は明文化されていないものを成長の過程で無意識に習得していくものが、「慣習」という意味での「文化」になろうかと思います。

こうした「文化」は、国を含む社会集団ごとにその具体的な中身、つまり「規則」は異なります。しかしこうしたさまざまな「規則」に無意識のままにしばられ、それを破るような「不届き者」がいれば、集団で「制裁」を加えるという意味では、世界共通であるという結論に達しました。これが集団自我による人類の「平等」という言葉の意味です。

さまざまなレベルの社会集団の中でも、国という社会集団がおそらく私たちを最も規制しているものでしょう。さまざまな国の出身の人たちをこれまでたくさん観察してきた感覚としては、おそらく7割か8割の人たちは「~人」というステレオタイプを多かれ少なかれ反映ているような考え方、話し方、行動の仕方を持っているように思われました。

国という社会集団がみずからの集団自我でその構成員たちを洗脳するための制度化された道具が義務教育、特に国語と国史という科目ではないかといういう思いは強まる一方です。これによって国民意識を培うのです。こうした科目の成績がよくなかった人たちでも、洗脳される度合いという意味では多くの場合「優等生」になるはずです。

集団自我に支配されることなく社会集団の一員であり続けることは可能です。そのための実践的な方法を、これまで所属したあるいは所属させられたどの社会集団でも「落第生」だった私としては、分かりやすい形で、しかも集団自我を脅かさない形で、提示できないものかと現在模索中です。

PS: つながる