2025-10-17

ユダヤ流有意義な人生 第12章 死と服喪 その3 死から何を学ぶべきか

大切な人の魂の昇華を祝い、それに対する自らの悲しみを表現する以外に、喪に服す目的がもうひとつあります。愛する人の死は自分自身の人生を見直し、人生の使命をどのように果たしているかを評価する機会でもあるのです。

ですから、愛する人の魂を偲ぶことは、自分自身の魂を見つめる最も適切な機会でもあるのです。自分の行動を評価することがいかに難しいか、私たちは皆知っています。友人や家族が亡くなるまで、そうする必要に迫られないのが普通です。その時になって初めて、私たちはその人が生前に成し遂げたこと、家族や友人にどう接したか、見知らぬ人をわざわざ助けたことなどを思い出します。しかし残念ながら、愛する人の死を体験するまでは、私たち自身の優先順位を普通は考え直すことがありません。

人間は1人1人が完結した世界であり、亡くなった大切な人の代わりを誰かが務めることはできません。しかしその空白を部分的に埋める助けになる方法はあります。家族や友人を偲んで徳の高い行いをすることは、その人の魂を継続させることになり、その人の生きた記念碑を建てることになるのです。

命の外側の部分、つまり人間の体に囲まれている部分だけを見ていると、死は確かに生の終わりのように思われます。しかし、私たちはこの外側の層の内側を覗いて、人間の魂つまり永遠とのつながりを見ることも学ばなければいけないのです。

つまり私たちの人生においては死にも目的があり、死はより有意義な人生を送るための道具となってくれるのです。しかし結局のところ、死とは遺族にとっては理解不能なものであり、破壊的な経験であることに変わりはありません。ありとあらゆる理性的な説明を聞いても、心はまだ泣いています。そして泣くべきなのです。友人や親族が愛する人のために悲しんでいる時、説明しようとせずに、ただ一緒にいてあげてください。そして慰め、一緒に泣いてあげてください。私たちがどんなにあがいても、生の神秘には私たちには理解できないことが多いからです。

PS: つながる