2024-12-27

普段の生活に(もっと)笑いを

皆さんはどんな人が怖いと、あるいは不気味だと感じますか。私は笑わない人にそう感じます。言葉と並んで笑いこそが人間と他の動物を分ける大きな違いであり、笑わない人間には人間らしさが感じられないからです。

以下は、笑いの効能について少なくとも頭で理解してもらって、皆さんにも普段の生活に(もっと)笑いを持ち込んでもらえればと願って、笑いについてのハシディズムのある教えをまとめてみたものです。

笑いには、異なる視点から物事を見るために、予測可能性や日常性といった凝り固まった枠組みから私たちを解き放ち、私たちの心を開き柔らかくしてくれるという効果があります。

何らかの理由でストレスを感じている時は、その苦境から自分を解き放つ機会がすぐそばにあることに気づかないことが多くなります。そして行き詰まり、恐怖に襲われ、パニックに陥ります。さらには恐怖とパニックが大きいほど、問題の解決策が見えなくなります。そして最終的には、恐怖がさらなる恐怖を生み、徐々に冷静さを失い、まるで溺れているかのように感じ始めのです。

このような苦境から自分を解き放つ方法のひとつが笑いです。笑いは心を軽くし、ストレスや緊張の束縛を解いて、以前は障害と絶望しか見えなかった所に新しい可能性を見るために私たちの心を開いてくれるものです。笑いはまた、硬直した予測可能な現実から私たちを解き放ち、意識していたよりも多くの選択肢と可能性へと私たちを開いてもくれます。

ただし、ひとつ注意すべきことがあります。外見上は同じように見えても大きな違いがある、冷笑的で表面的な笑いと健康的で生産的な笑いを区別することです。冷笑的で表面的な笑いが、人生は無意味で疎外されたものだという腐食した感情を表現するのに対して、健康的で生産的な笑いは、現実の制限された認識からの解放感を表現するものです。誰かを笑うかと誰かと笑うかの違いと言い換えることもできます。

PS: つながる

2024-12-20

壮大な勘違い

少し前までの私自身も含めて、多くの人はある壮大な勘違いをしています。それは自分のこと、特に自分にとって何が一番いいのかは、自分が一番よく分かっているという勘違いです。

自分が一番欲しているものが自分にとって一番いいものだという思い込みは考え直してみる必要があります。自分にとって一番いいものとは、欲していないけれども必要なものであることがよくあります。その代表的なものが人生で遭遇する様々な試練でしょう。

できることならば試練など避けて、「幸せ」ばかりが続く人生を送ることを自分だけでなく自分にとって大切な人にも願うのが普通ではないでしょうか。

これは例えて言えば、栄養について全く知らない子供がいつもお菓子ばかり食べていたいと願うのと基本的には変わりません。あるいは、運動などする代わりに、1日中家の中でゴロゴロしていることを願うのとも基本的に変わりません。肉体の健康と成長について学ぶことで初めて自分にとって何が一番いいのかが分かるのです。

同じことは頭の健康と成長についても言えるでしょう。例えば、本は一切読まずに、テレビの娯楽番組ばかり見ていたいと願い、実際にそうして生きているのが自分の頭の健康と成長にとってよくないことは少し考えるだけでも分かるはずです。

ところが霊的な成長はどうでしょうか。これははるかに厄介です。いわゆる「成功」、つまり自我の欲求が叶い続けるような人生だと、霊的なぬるま湯に浸かり続けることになり、結果として霊的な成長は望めません。

それでは自分の霊的な成長のためには一体何が必要なのかということになると、ただ考えただけでは答が出てきません。まずは意識の状態を変える必要があるからです。意識の状態を変えるとは、自我という幻想の自分に支配されてきた本当の自分を取り戻すことです。

どうやって本当の自分を取り戻すかを講座とコーチングで伝えているのが、一言で言えばこの私塾でやっていることです。

PS: 現在お申し込み受付中

PPS: つながる

2024-12-13

ハシディズムの教えをあえて一言でまとめると

この私塾で日本に皆さんに提供している講座とコーチングの土台になっているのは、ユダヤ教のハシディズムの教えです。こう聞かれただけで、どうかレッテル貼りはしないでください。

ハシディズムは、辞書的には例えば「ユダヤ教の神秘主義」とかと定義されていて、百科事典的にはこれにさらに細かい説明が続きます。しかしこれらは単なる頭の知識にすぎず、ハシディズムについては知ることができたとしても、ハシディズムそのものを知ることはできません。愛についてどれだけたくさんの本を読んで知識を蓄えていても、実際に愛を経験したことがない人は愛を本当には理解していないのと同じことです。

なぜ私がこの教えにここまでこだわるかというと、この教えに触れて、自分と人生とが革命的な変化を遂げたからです。ユダヤ人のように頭が良くなりますよだとか、金持ちになれますよだとかといった一種の「ユダヤ便乗商法」とは根本的に異なる教えです。自我の欲望を満足させるのでなく、本当の自分を取り戻し、それによって人生を有意義なものにするための教えだからです。今の自分と人生を劇的に変えたいと思っている人が、絶対数は少ないにしても、日本にも絶対いると確信しています。

膨大な量だけでなく、中身も深遠なこの教えの全体を仮に100だとすれば、私の講座とコーチングで伝えられるのはせいぜい10もいけばいい方でしょう。そしてこうした文字だけのブログ等で伝わるのはおそらく1ぐらいになるはずです。元の光が収縮していく様子を想像してみてください。

こうした制約を承知の上で、ハシディズムの教えをあえて一言でまとめてみると、少なくとも私自身が最も感銘・影響を受けたものとして以下の3つになります。

  • 肉体は本であり、魂は作家であり、人生は物語である
  • すべては善である
  • 僅かの光は多くの闇を蹴散らす

PS: つながる

2024-12-06

ユダヤ流有意義な人生

生まれてから、幼年期・思春期を経て、就職・結婚し、その後老化・引退し、死を迎えるまでの人生の段階を送るための確固たる指針を皆さんはお持ちですか、それともその場しのぎでしょうか。

そしてこうして人生の段階すべてを通してついて回る愛・健康・仕事・お金といった問題、そしてこれらの問題から生じる苦痛や苦難そして恐怖や不安といった試練に対処されるための確固たる指針をお持ちですか、それともその場しのぎでしょうか。

こうした人生の段階、そこについてまわる問題、そしてそこから来る試練のそれぞれに対する指針を知ってもらうことがこの講座の最初の目的です。そこから浮かび上がってくるはずの全体を貫く指針を通して、皆さんの人生が有意義なものなってもらうのが最終的な目的です。

この指針の元になっているのは、長年の伝統の中でその真理と有効性を証明してきたユダヤ流人生の知恵です。日本(語)では他では触れることにできない教えです。

今の自分と人生に輝きを感じられなくなってきたものの、輝きをどう取り戻していいか分からないでいる方にはぜひ受講してもらいたいと思っております。この講座でお伝えする教えも日本の「常識」とは大きくことなるものばかりですが、噛み締めて味わってもらうことで、その真理と有効性を体感していただけるはずです。

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2024-11-29

霊的眠りからの目覚め

霊的眠りと題した前回の投稿で、言語によって生み出される思考に支配されてしまっているだけでなく、このこと自体にも気づいていない状態のことを霊的眠りと呼びました。

この続編となる今回の投稿では、私自身どうやってこの眠りの状態から目を覚ますことになったのかという個人的体験、そしてそれに基づいて、さらには関連するたくさんの本や講義を漁って調べたことから浮かび上がってきた目覚めの方法についても簡単にご紹介したいと思います。

個人的体験

霊的眠りから目覚めることになったのかをお話する前に、「先史時代」つまりどんな霊的眠りの状態にあったかという話を簡単にしてみます。これは別の文脈でもしたことですが、今回は霊的眠りという特殊な視点から自分でも見つめ直してみます。

この「先史時代」が期せずして突然終わりを迎えることになる前の私は、思考、それも否定思考と完全に一体化していました。まさに「我思う、ゆえに我あり」の状態でした。他人の些細な言葉と行動に一々怒っていたのです。そしてこの怒りを一時的に鎮めるために逃げていたアルコールが入ると、怒りはさらにますという悪循環に陥っていました。

怒りを言葉で爆発させることはしらふの状態では普通ありませんでしたが、アルコールが入った状態では自制心を失って、怒りが言葉で爆発することがよくあり、対人関係で問題を起こしていました。これが頂点に達したのが、元妻のお母さんに酔った勢いで暴言を吐いてしまった時でした。元妻からは翌朝離婚を宣告されました。

自分自身の、そして心配してくれた周りに人たちの努力にもかかわらず、結局離婚を避けることはできませんでした。このことに抵抗し続ける代わりに、自分の責任と無力さを認め、現実をありのままに受け入れることにした時に、突然心が鎮んで、長いこと味わったことがないような心の平安も感じました。そして驚いたことに、あれほど好きだったアルコールが突然飲みたくなくなったのです。以来、飲みたいと思ったことは一度もありません。

この不思議な体験をその後考え続けてみると、自分でも一番しっくりくる説明は、あまりのそれも突然のショックで自我が崩壊してしまったというものです。これまで本当の自分を覆い隠していて自我の厚い思考の雲の間に裂け目が生じ、この裂け目の間から本当の自分の輝きが顔を出したのです。

そして(否定)思考を生み出していた自分を観察する自分がいることにも初めて自覚するようになりました。つまり「我思う、ゆえに我あり」という場合の、前者の「我」と後者の「我」とは全く別物であることが頭でだけでなく、直接体験として分かったのです。これが長年の霊的眠りから目覚め(させられ)た記念すべき瞬間でした。

自分の意志とは無関係に目覚め(させられ)る方法

私が体験したのがまさにこの方法です。こうした経験は何も私だけの特別なものでなく、同じ経験を通して霊的眠りから目覚めることになった人は他にもたくさんいるはずだと思って、本を色々探していたところ見つかったのが Extraordinary Awakenings という英語の本です。この本の著者である Steve Taylor は個人自我と集団自我の両方を含む自我からの目覚めについて何冊も本を出しており、それらも全部読み、多くの気づきが得られました。

この本で扱っているのは、大きな挫折や試練を含むトラウマ的体験によって自我が崩壊し、霊的眠りから目覚め(させられ)るという、自分の意志とは無関係に起こる種類の方法です。

自我の否定思考とますます一体化していくようになると、つまり霊的眠りはますます深まり、終いにはこうしたトラウマ的体験に至るという可能性は誰にでもあります。できれば、他の人には体験してもらいたくないと思っています。ひとつには、トラウマ的体験があっても、霊的眠りから目覚め(させられ)るか確実ではないから、もうひとつには、トラウマ的体験の克服は本当に大変だからです。この体験は私にとって一種の原点になっています。

自分の意志で目覚める方法

本当の自分から逸脱し、それに合わせて人生も自我に支配されたものになっていくと、「宇宙」からの「目覚まし時計」が鳴り始めるようになります。目を覚ませという知らせです。その音は最初はほとんど聞き取れないものですが、無視していると、少しずつ高くなり、終いには目を覚まさざるをえなくなります。普通の目覚まし時計と同じように、この「目覚まし時計」の場合でも、まだ鳴り音が低いうちに目を覚ましておくのが賢い選択ですが、かつての私自身を含めて、多くの人は残念ながらそうはなっていません。

トラウマ的体験に至る前に、重い腰を上げて、自分の意志で霊的眠りから目覚めようとする場合、一番手っ取り早いのが呼吸瞑想です。呼吸に思考・感情移入させられる人はまずいません。だから、呼吸に意識を集中させると、思考の波が止むのです。そしてこれを一定期間続けていくと、自分の思考を観察できるようになっていきます。つまり、思考との一体化から離れていくのです。これはとても効果的で、しかも簡単にできるので、皆さんのぜひ試されてみてください。最初は10分間、目標は20分間です。思考の波が完全に止まることはありませんので、呼吸に合わせていた意識が思考の方に戻ってしまったら、呼吸に戻すということをひたすら繰り返すだけです。脳の神経回路の書き換えにかかる期間とされている8週間続ければ、それなりの効果があるはずです。

これ以外ですぐに効果が感じられるものとして私自身試し、今でもちょくちょくお世話になっているのが、ハシディズム音楽を聴くことです。ハシディズム音楽は、魂から出て魂に届く音楽とも呼ばれています。知性を超越した方法と呼んでもいいでしょう。実はこの投稿もハシディズム音楽を聴きながら書いています。個人的なお勧めは Chabad.org Jewish Music App です。オンラインでもスマートフォン用のアプリケーションでも聴くことができます。

効果が出るまでには時間がかかるかもしれないものの、それはより永続的になる方法としては、知性の助けを借りた学びです。言ってみれば、知性を使って知性を超越するということになります。個人的に試し続け、霊的眠りから目覚めた後でまた元の眠りの状態に戻らないようにするためにも大きな効果を感じてきました。具体的にはどういう学びかというと、いわゆるスピリチュアリティーの教えを学ぶことです。私が学び続けているスピリチュアリティーの教えは、ユダヤ流ではハシディズムが、それ以外では例えば Eckhart TolleAdjashanti という2人の霊的師に特に深い影響を受けました。

ハシディズムの教えに関しては、この私塾を通して、講座とコーチングという形で日本の皆さんに提供しています。

PS: 「ユダヤ流人生の知恵」の提供内容・ウェブサイトの見直し・整理

今回の投稿のせいもあって、この私塾「ユダヤ流人生の知恵」で提供している内容を見直し整理しました。これに合わせて、ウェブサイトの内容も見直し整理してみました。まだウェブサイトを見られたことがない方は、そしてもう見られたことがある方も、覗いてみてください。特に、なぜこの私塾を日本で立ち上げようと思ったのかについては、心を込めて書いています。

2024-11-22

霊的眠り

例えば、自分が毎日何を考えたり、言ったり、したりしていることを、ソーシャルメディアで休みなしに、そして時には写真入りで、投稿する人がいますよね。あるいはソーシャルメディア以外でも、自分の思ったことを、特に否定的なことを、これまた四六時中「実況中継」し続けている人もいますよね。こういう人たちをどう思われますか。

ここまで行かなくても、休みない「実況中継」は自分の頭の中で無意識のまま無言でずっと続けているのが普通です。

いずれも他の動物たちには見られない、人間だけの現象です。言語という道具を獲得したまではいいものの、それを使う代わりに使われてしまって、言語によって生み出される思考に支配されてしまっているのです。そしてこのこと自体にも気づいていないのが普通です。こうした状態は霊的に眠った状態と呼ばれています。

もし自分が眠っていることに気づいていれば、それはもう眠っていることにはならないのと同じように、もし自分が思考に支配されているということに気づくことができれば、それはもう思考に支配されていることにはならないのです。

そしてこの気づきに至ることができれば、これまで牢獄に繋がれ続けてきた本当の自分を解き放ち、本当の自分の自然な状態である喜びを取り戻すこともできるのです。生まれたばかりの赤ちゃんたちは誰もが喜びに溢れていますよね。これは私たちの本来の状態なのです。しかし残念ながら、成長の過程で、思考という雲がどんどん厚くなり、それがこの喜びを覆い隠していくようになります。

皆さんも、本当の自分のこうした本来の自然の状態を取り戻したいと思われませんか。でももし取り戻したいと思われた場合、どうして取り戻したらいいのか、何かいい方法はご存知ですか。

皆さんに少し考えてもらう時間を設けるために、この方法は今日すぐにはご紹介せずに、来週の投稿で私自身の目覚めの体験談を含めてご紹介します。

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2024-11-15

ハシディズムの説話の例

人生の知恵を伝える方法の1つとしてハシディズムでは説話が用いられるという投稿をハシディズムの説話の力という題目で2ヶ月半前に配信しました。

東欧ユダヤ人の話し言葉であったイディッシュ語で元々語り伝えられていたものが起源で、東欧のおけるユダヤ教の伝統に従ってヘブライ語に翻訳され、文字では多くがヘブライ語で伝えられてきています。そのかなりが英語とロシア語に翻訳されています。

日本語で読めるハシディズムの説話のまとまったものとしては、マルチン・ブーバーが収集・加工した選集の日本語訳がありますが、もう絶版になっています。

ハシディズムの説話には大別しておそらく最低でも2種類があることに気づきました。1種類目は「義人」とされるラビたちの言行録で、2種類目は彼ら自身がハシディズムの教えを盛り込んで書いた寓話です。

前者の種類で語られているラビたちの中でも個人的に特に好きなアニポリのズシャにまつわる説話をここで2つ日本語でご紹介することで、ハシディズムの説話について知るのではなく、そのものを実際に味見してもらいたいと思います。このアニポリのズシャは人生で多くの苦難を味わい続けたにもかかわらず、子供のような無邪気さを備えていることでよく知られています。この無邪気さは彼の言葉にもよく表れています。

こうした毎週金曜日の投稿の配信通知を行っているラインで毎週日曜日には「ユダヤ流人生の問と答の例」というものを無料配信しています。今度の3月から始める予定のユダヤ流人生の問という講座ではこの内容を毎回掘り下げていきたいと思っています。そしてこの講座の毎回の授業の初めには、私がヘブライ語から日本語に訳すハシディズムの説話を毎回1つのテーマに絞って口頭でご紹介していくことも考えています。

それでは、前置きはここまでにして、説話を始めます。

涙の力

ズシャの妻は彼に毎日離婚を迫っていました。そのせいで彼の心はとても重くなっていました。

ある夜彼は妻を呼んで、「これを見てごらん」と言って、涙で濡れた枕を見せました。それから彼は続けてこう言いました。「誰であれ誰かが最初の妻と離婚すれば、祭壇までもが涙を流すとタルムードには書いてある。この涙で枕が濡れたんだ。これ以上私に何を望むと言うんだい。これでもまだ離婚したいのかい。」

それからは彼の妻は静かになり、静になると幸せになり、幸せになると良い妻になりました。

ズシャの所に行って、聞いてみなさい

ある男がハシディズムの指導者の所にやって来て、「良いことに感謝するのと同じように悪いことにも感謝しなければいけないという教えがあるが、こんなことは一体人間には可能なのか。」と尋ねました。

すると、この指導者は「この質問の答を見つけるには、私の弟子であるアニポリのズシャの所に行って、聞いてみなさい。」と答えました。

この男は早速ズシャの元を訪れました。この同じ質問をする前に、ズシャの暮らしぶりと振る舞いを観察していると、貧乏なだけでなく、家族が病気に苦しめられてもいるのに、良いことに感謝するのと同じように悪いことにも感謝するという教えを体現していることにすぐに気づきました。

そこで、この秘密を知ろうと、この男はズシャの師にしたのと同じ質問を彼にもすることにしました。「良いことに感謝するのと同じように悪いことにも感謝しなければいけないという教えがあるが、こんなことは一体人間には可能なのか。」という質問です。

これを聞いたズシャは、「いい質問だね。でも私の先生がなぜあなたを私の所によこしたのか、私には分かりません。人生の苦しみに会っている人の所に行って、聞いてみるべきでしたね。」と答えました。

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2024-11-08

ユダヤ式ライフコーチングで行う質問の例

アルコール・薬物・お金・地位・名声といった外的なものに依存しなくとも、くすんだ自分と人生に輝きを取り戻し維持するのを助けるべく、日本の皆さんに提供しているものの1つがユダヤ式ライフコーチングです。

これを読まれている皆さんの多くは、そもそもライフコーチングと言われても、おそらく何のことか実感がわかないのではないでしょうか。今は提供する側に回っている私自身、実際に受けてみるまでは全く想像すらつきませんでした。

ということで、ユダヤ式ライフコーチングで行っている多くの質問のうちで、本当の自分に目覚めるための助けとして行っている質問をご紹介します。実際のコーチングの1セッションでは、これらの質問に対する答に基づいて、掘り下げるためのさらなる質問を行い、本当の自分を見つけていくことになります。

  1. どこにでも「持参」するものは何ですか。
  2. 自分がこの世界にもたらすために生まれてきた「贈り物」・「光」は何ですか。
  3. あなたの友達はなぜあなたの友達ですか。あなたに何を見つけていると思いますか。
  4. あなたの大きな成功の例を挙げてください。この成功であなたの役目は何でしたか。この成功にあなたは何をもたらしましたか。
  5. 現実的な制約がないとすれば、先例のない自己実現を可能にしてくれるものは何ですか。
  6. あなたの長所は何かと配偶者に聞いたら、どんな答が返ってくると思いますか。
  7. あなたの120歳の誕生日を祝って、友人たちが祝賀会を企画してくれています。あなたについて友人たちが語る中心的なことは何だと思いますか。
  8. どんなことに刺激・鼓舞されて行動する時にあなたは喜びに満ち溢れますか。
  9. これまででとても楽しかった職場の例を挙げてください。その職場ではあなたのどんな特別な力が発露されたと思いますか。上司には何と言われましたか。同僚からはどう思われていましたか。
  10. あなたの子供たちがあなただけから受け継ぐことのできる個人的な特性とは何ですか。
  11. 喜びに満ち溢れた例外的な霊的体験の例を挙げてください。あなたのどんな内的力が発露されたと思いますか。

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2024-11-01

どうやって自我を手放し、魂を磨くか

「ユダヤ流何事にも動じない方法」という講座を先々月9月と先月10月に行いました。ユダヤ流人生の知恵を味見してもらうために、8回の授業の中で特に実用性が高いと思われる2回の内容を簡単に文字にまとめて皆さんに紹介することにしました。今回はその2回目です。

いずれも心がけ次第で日常生活でできることです。ただし、そのための第一歩として、止めることが望ましいこうした言語行為を普段無意識にやり続けているということを自覚することが大切になります。この投稿がこのための助けになれば幸いです。

止めることが望ましい以下の4つの言語行為に共通するのは、いずれの場合もこれによって、自分が他人とは別個の存在であるだけでなく、他人よりも優れた別個の存在であるという自我の「好物」を自我に与え、自我を肥やすだけになることです。したがって、こうした言語行為を止めることは、自我の「栄養源」を断つことになり、結果として自我を手放すことにもつながることになるのです。

1 比較するのを止める

自分と他人を比較することの最大の問題のひとつは、それが他人の一部に善悪のレッテル貼りをしてしまうことにつながり、こうして貼られたレッテルが今度はその人全体を価値判断することに使われるということです。

例えば、ある人のある側面を自分よりも劣ると決めつけた後で、この人全体が自分よりも劣ると決めつけることです。

比較するのを止めるための効果的な方法のひとつとして、比較が何のためになっているのか自問自答してみてください。つまり、こうした比較の具体的に何が自我の「栄養」になっているのかということをまずは自覚してみるのです。おそらく比較は無意味だという結論にも至るはずです。

2 陰口を言うのを止める

比較はそれだけでも問題があるだけでなく、陰口に発展するというさらなる問題も抱えています。比較以上に、陰口は自我の強化に使われます。それも、他人を貶めることで自分を相対的に高め、一時的優越感に浸ることによってです。

まだ正常な感覚を失っていなければ、陰口を言った後では、一時的優越感はすぐに消え、悪い後味が続くのが普通なはずです。さらには、二日酔いのように苦痛がやってくることも少なくありません。

陰口を言うのを止めるには、まずは陰口を言い始めてしまったら、まずはそのことに気づくことが第一歩となります。次に陰口を言った後にどうなるかを思い出してみてください。陰口から得られる一時的優越感とそれに続く悪い後味・苦痛を天秤にかけてみるのです。そして陰口は、話題にされた人だけでなく、話をした自分、そして話を聞かされた人の3者を傷付けることになることも肝に銘じてください。

3 求められていない意見を言うのを止める

これは多くの人が、それも多くの場合善意のつもりで無意識にやってしまうことです。求められていない意見を言うのは、元をただせば、自己顕示につながっています。自己顕示によって得られる他人からの承認は自我の「大好物」です。

求められていない意見を言うのを止めるには、誰かが何かについて意見を言っても、それをただ黙って聞いているだけにするということを試してみてください。このいわゆる傾聴というのは、この文脈に限らず、コミュニケーションというもっと広い文脈においても、とても大切な(しかし多くの人は身につける機会のなかった)スキルです。

4 不平を言うのを止める

不平はあらゆる否定性の生みの親であるとも言われています。不平を言っても、結局自分が不幸だということが聞く方に伝わるだけです。不平を言えば、自分の恨みは正当化されるというのも勘違いです。正当化される恨みなど存在しないからです。そして不平は抵抗の一種でもあります。

これまたまだ正常な感覚を失っていなければ、不平を言った後では、抵抗した恨みは自分の中に残るだけというのが普通なはずです。そして残った恨みは普通苦難に変わります。不平を言っても、結局自分を二重に苦しめるだけだということになります。

不平を言うのを止めるには、(すぐに実行するのは簡単ではありませんが)抵抗するのをやめて、すべてをありのままに受け入れて、すべてに善を見つけるようにしてみてください。自我の誘惑に乗って不平を言う代わりに、自我を超越すれば、それを観察している相手も自我を超越する助けになることも肝に銘じてみてください。不平を言わない自分の存在を通して、その肯定的エネルギーが相手に伝わるのです。

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2024-10-23

どうやって心の平穏を得るか

「ユダヤ流何事にも動じない方法」という講座を先月9月と今月10月に行っています。ユダヤ流人生の知恵を味見してもらうために、8回の授業の中で特に実用性が高いと思われる2回の内容を簡単に文字にまとめて皆さんに紹介することにしました。今回はその1回目です。

1 何事も個人的に受け止めない

このためには、気分を害さないと決断する必要があります。自我の誘惑を断ち切るのです。実際のところ、私たちの多くは、意識するしないにかかわらず、気分を害するための方法を探し続けています。自我は自らが望むような形で世界が回っていないことを見ています。自我はそれに対して価値判断を下しています。そして自我はさらにそれを「問題」にしています。

代わりに、すべてをありのままに見るようにするのです。他人の振る舞いを自分が人生で行き詰まる理由にしてはいけません。

何事も個人的に受け止めないことを実践するための課題として、自分には批判的に思えることを誰かに言われた時のことを想像してみてください。この際に、すぐには反応しないで、一呼吸おいて微笑んで、息を吐きながら心の中で相手への愛と癒しを祈ってみてください。これによって、相手がますます批判的になってしまうという悪循環を避けるのです。

2 自分が常に正しくなければいけないということを手放す

そもそも、自分が常に正しい、勝ちたいと感じる必要はないのです。これが必要だと感じるのは自我の視点です。魂の視点からすれば、誰が勝者で誰が敗者かといった判断はない、つまり敗者など存在しないのです。私たちは皆同じ源から来て同じ源に戻るからであり、私たちは皆共に成長しているからです。

正しくあるべきことに執着しないようにすることで、この執着が人生を「問題」に変え葛藤を生み出すことを防ぐことができます。

自分が常に正しくなければいけないということを手放すことを実践するための課題として、誰が正しいか正しくないかの議論に巻き込まれた時のことを想像してみてください。この際にゆっくりと呼吸で相手にこう言ってみるください。「そんな風に考えたことはなかった」、「あなたの言いたいことは分かる」、「ちょっと考えさせて」、「私には難しいけど、あなたのことをもっと理解したい」と。つまり、対立の代わりに平和を選択する、あるいは議論への答よりも相手との間の愛のエネルギーを優先するのです。

3 もっとを手放す

自我は現状に満足することは決してありません。したがって、もっとという絶え間ない欲求を手放さないままにしておいたのでは、達成感を味わうことはなく、常にさらなる(そしていつまで経っても終わりのない)努力を続けることになるのです。

この方法を実践するための課題として、目的地に着いたからもうすることはないと思って、1時間行動してみてください。そしてその際に生まれてくる感情を観察してみてください。もう終わったという考えに対する抵抗はありませんか。まだやらなければならないことがあるのではないかという不安はありませんか。

もしあったとしたら、こうした感情にどう対処するのが一番いいのでしょうか。それはその感情と戦う代わりに、そのまま通過させることです。今のこの瞬間他に何もしないのです。さらには、満足感を得るためには、他の何も必要ないと認識するようにしてみてください。

4 褒め言葉も批判も同じようにとらえる

褒められることには両面性があります。褒められることは感謝に値する一方で、褒められることで得られる快感を追求することはかえってデメリットになることもあるからです。本物の愛を感じる代わりに、褒め言葉によって自分が特別な存在、重要な存在、あるいは「より優れている」と感じるのであれば、批判される時に感じるのと基本的には同じ不幸な副作用を生み出すことになります。

不幸な副作用とは、自分の中での比較です。自分はこうあるべきだと思い、こうありたくないと思うことです。

褒め言葉も批判も同じようにとらえることを実践するための課題として、誰かに褒められたら、次の3つのことを確かめてみてください。1)ありがとうと言えるかどうか、そして相手が送ってくれた愛と感謝の気持ちに感謝できるかどうか。2)褒め言葉は、相手が自分に愛を親切にも送ってくれただけであって、今の自分が偉くなったわけではないと思えるかどうか。3)褒め言葉を誰かと共有したいという衝動とその背後にある承認欲求がどの程度強いか。

5 自分の手柄にしない

これは外面的達成を内面的満足感に結びつけないことです。さらに別の言葉でもっと具体的に言い換えれば、1)自分の価値を高めようと、自分の業績に目を向けないこと、2)自分の業績に基づいて、自分を偉い人間、あるいは価値のある人間だと考えるのはやめること、3)自分の業績から得られる満足感は一時的なものにすぎないことを自覚すること、4)自分の業績とは本当は自分1人の手柄ではないことを自覚すること、ということになります。

自分の手柄にしないようにするためには、自分が何かを成し遂げたと思ったら、1)一息ついて、自分に微笑みかけ、感謝の気持ちを持つ、2)自分を通して起こった奇跡を目撃するために、完全にその場にいる、3)自分は器となったことを確認する、ということを実践してみてください。

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PPS: つながる

2024-09-27

24年間住んだエルサレムを離れて今日でちょうど丸1年

ヘブライ大学ヘブライ語学科博士課程に留学中の5年間、そしてイスラエルのバルイラン大学ヘブライ・セム語学科専任講師としてイスラエルに移住してから19年間、合わせて24年間住んだエルサレムを離れて今日でちょうど丸1年になりました。そして今回の人生の旅の最初の駅に何と42年半ぶりに移り住むことになったのはすでにここでも書いた通りです。

19年ぶりに住むことになった日本では、エルサレム生活の最後の方で3年間専門の学校で学ぶ機会を得たハシディズムの教えに基づいたユダヤ流人生の知恵を講座とコーチングという形で日本の皆さんにお伝えするオンライの私塾を立ち上げ、活動を続けています。

久しぶりの日本での生活はどうかという質問を色々な人から受けます。一言で言えば、以前気になっていたような国・文化の間の違いよりも、国・文化の違いを超えた人間個人・社会集団の根本的な共通点の方に目が行くようになりました。

国・文化の違いを超えた人間個人の根本的な共通点というのは、住む場所・環境は違っても、多くの人が幻想の自分、つまり(個人)自我、特にその思考に支配されて生きているだけでなく、このこと自体にも気づいていないということです。イスラエルでも日本でも基本的には同じで、おそらく他の国々でも同じなのだろうと思っています。

私自身、離婚をきっかけにして少しずつ目が覚めてていくまでは、同じ状態でしたから、偉そうなことは言えません。その後エルサレムで受けたユダヤ式ライフコーチングとハシディズムの一連の講座、そしてこれと並行して自分で学び続けたハシディズム以外のいわゆる神秘主義・非二元論の教えを通して、意識の状態が地殻変動とも呼べるくらいの大きな変化を遂げました。

例えて言えば、これまで厚い雲に覆われていた空が晴れ渡ったような感じです。これを日本の皆さんにも味わってもらいたい、そしてもっと喜びに溢れた本来の自分を取り戻してもらいたいと思って、この私塾の活動を続けていますが、残念ながら、こちらのメッセージが十分理解され伝わっているとは思えないままこの1年が経過しました。でも、そう簡単には諦めず、これからもしばらくは忍耐強く、そしてできるかぎりの思いやりの心を持って、伝え続けていければと思っています。

2年目となる日本での新生活では、この私塾での活動以外で、ある大きなプロジェクトに参加することが今週決まりました。現時点では詳細はまだ公言できないものの、ハシディズムの教えをいわば直感的に日本の皆さんにも知ってもらうための社会貢献プロジェクトです。ヘブライ語・イディッシュ語・日本語・ハシディズムの知識が必要とされるため、この企画者からお声がかかった次第です。しかもこの企画者というのは、かつて勤めていたイスラエルのバルイラン大学でおそらく世界でも珍しいハシディズム講座を担当している知り合いの研究者です。現時点では正確にいつになるか分かりませんが、このプロジェクトの成果は一般向けの日本語の本という形で紹介することになるはずです。

* 来週金曜日はユダヤ暦新年のため投稿の配信はありません。

PS: ご提供している講座・コーチング

PPS: つながる

2024-08-30

ハシディズムの説話の力

この私塾「ユダヤ流人生の知恵」で皆さんに提供している講座とコーチングはハシディズムの教えに基づいていることはこれまで何度もお伝えした通りです。少なくとも私の理解では、この教えの目的は本当の自分を取り戻し意識の状態を変えることで有意義な人生にすることであると言えるかと思います。

この教えを学ぶ方法として最も一般的なのは知性を使うことです。もっと具体的には、先生が生徒たちに教えを口頭で伝えることです。単なる知識と違って、人生の知恵の場合、文字だけでは伝わらないことが多すぎます。生身の先生から口頭で教えを受けることの最大の利点の1つは、その先生の存在を感じることができるということです。別の言葉で言えば、その先生の霊的エネルギーを直感的に感じることができるということです。伝えようとしている教えを人生にどう体現しているかが霊的エネルギーとして直感的に伝わってくるのです。

これ以外の方法として説話があります。自分が伝えている教えを通して自分の意識を高めることになった賢者たちが、その人生の知恵を自らの思考・発言・行動に具体的にどう反映させているかということが子供でもすぐ分かるのが説話の力です。その力の秘密は、講義とは違って説話の場合、自我が身構え防御態勢に入ることがないので、そのメッセージが自我に浸透することになり、気づいた時には自我は茹で上がってしまうことにあるという説明をある高名なハシディズムのラビから聞いたことがあります。

多くの賢者たちの中でも、特に同世代そして後世に多大な影響を与えた Rabbi Menachem Mendel Schneerson (愛称「レベ」)にまつわる話を2つご紹介します。

生前彼はハバド派ハシディズムの7代目指導者としての激務を40年以上にもわたって務め続ける傍ら、80代になっても毎週1回日曜日に数時間ずつ、彼の深遠な知恵に基づいた助言を求めてやってくる数多くのユダヤ人だけでなく非ユダヤ人を毎回何百人と言葉を交わすということをずっと続けていました。これを見たある人がある時レベに「何時間も立ちっぱなしは疲れないか」と質問をしました。すると返ってきた答は「ダイヤモンドを数えるのに疲れる人はいるか」というものでした。

もう1つの話は、このレベがユダヤ暦の新年に吹く角笛を聞けば、子宝に恵まれなかった夫婦でも子宝に恵まれるという噂を聞きつけて、結婚後10年経っても子宝に恵まれなかったある男性が新年の祈りでレベの近くでこの角笛の音を聞こうと、レベが祈るシナゴーグに早々とやってきて、近くに席を取ります。当日祈りが始まると、レベは噂通り7本の角笛を抱えてシナゴーグにやってきます。1本目を取り出して吹こうとしたところ、まったく音が出ないのです。それで2本目を取り出して試してみたところ、また音が出ません。結局、7本どれも音が出なかったのです。自分の子供が欲しいという自分の願いが角笛をある意味窒息させてしまっているのではないかと危惧したこの男は、自分のこの願いを一旦捨てることにします。すると、レベの角笛から突然音が出るようになったのです。その後この男の妻はめでたく子供を生むことになります。1年後の新年にはお礼も兼ねて今度は夫婦で同じシナゴーグに行きます。この夫婦に子供が生まれたことを誰からも聞いていないはずのレベがこの赤ちゃんを見て言った言葉というのが、「この赤ちゃんが去年私の角笛のおかげで生まれた赤ちゃんか」だったのです。

ハシディズムの説話には古いものから新しいものまで、そして人生のおける様々なテーマについて、本当にたくさんあります。原文は主にヘブライ語で伝わっているこうした説話を少しずつ日本に皆さんにも日本語で紹介していけないものかと、目下その枠組を考えているところです。

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2024-08-23

トーラーの学びにおける第4の革命

* この投稿の主旨は、私がエルサレムで3年間ハシディズム(式心理学)を体系的に学んだ学校の校長で、私が直接教えを受けたラビたちの師でもある高名なハバド派ラビ Rabbi Yitzchak Ginsburgh の教えに基づくものです。

そもそも「トーラー」とは何なのかから話を始めましょう。一番狭い意味ではモーセ五書を、一番広い意味ではユダヤ教の教え全体を指します。例えばヘブライ語聖書を指す場合のように、全体両者の中間にあるいずれかの意味で使われることもあります。

こうした教えが現代日本に住む皆さんに一体どんな関係があると思われる方も少なくないかもしれません。当然とも言えるこの問に答えることになるのが、トーラーの学びにおける第4の革命ということになります。結論を先に一言で言うと、それがおおありなのです。なぜかということに興味をそそられた方は続きをお読みください。

第4の革命と言うからにはそれに先立つ3つの革命があったということになります。第1の革命はモーセ五書という形で文字にされて伝わってきたいわゆる「書紀律法」を補う形で口頭で伝わってきていたいわゆる「口伝律法」が文字化されたことです。第2の革命はトーラーを教えるが職業化したことです。第3の革命は今も進行中のもので、基本的な古典文献を除いては、伝統的には男性だけのものであったトーラーの学びの門戸が女性にも開放されるようになったことです。

そして今進行しつつあるのが第4の革命です。最初の3つの革命はユダヤ人だけに関わるものだったのに対して、この第4の革命ではトーラーの学びの門戸がユダヤ人以外にも開放されることになっただけでなく、そのためにユダヤ人は積極的に教えるべきだというものです。これはいわゆる宣教ではありません。

言ってみれば、私の直接の師たちの師のこの呼びかけに応える形で、「ユダヤ流人生の知恵」という名前の元に、日本の皆さんの人生も有意義なものにしてくれると確信した内容を講義・コーチングという形で伝えようとしています。

その門戸がユダヤ人以外にも開放されてしかるべしというトーラーの学びの中で中核をなしているのが、ハシディズムの教えです。これは口伝密教と言うこともでき、トーラーの教えの中で最も深遠な部分です。ただし、その性質上、ユダヤ人の間でもこれまではごく少数の人たちだけが、自分の師から口頭で教えを受けるということしかできない状況でした。したがって、トーラーを学ぶユダヤ人の間ですらハシディズムの学びが一般化しているとは言えない残念な状況が続いています。

それなのに、日本の皆さんにこうした言ってみれば「閉ざされた」教えをどうしてもお伝えしたいと強く願うようになったのは、まずは何より私自身がこの教えに触れることで革命的な変化を起こしたからです。もっと具体的に言えば、本当の自分を取り戻し、それによって意識の状態が高まり、さらには人生がこれまでとは比べ物にならないくらい喜びに溢れた有意義なものになりました。

ハシディズムは「トーラーの内面性」とも呼ばれています。例えば、トーラーの一番狭い意味であるモーセ五書を字面の意味で捉える代わりに、人間心理についての教えとして「翻訳」しているのです。この「翻訳」によって、トーラーの教えが普段の生活に応用できるようになります。これによって、トーラーの教えに生命力が与えられ、さらにはこの生命力によって、トーラーの教えが生きた人生の知恵として突然輝き出すようになるのです。

最後に、創世記の文章を「トーラーの内面性」に「翻訳」した例として、同じ Rabbi Yitzchak Ginsburgh による注解をご紹介してみます。

創世記を実際に読まれたことがない方でも、アブラハムという名前ぐらいは聞かれたことがあるはずです。ユダヤ民族の開祖とされている人物です。単純に考えると奇妙なことに、このアブラハムの人生についての詳しい記述が初めて出てくるのは、当時はまだアブラムと呼ばれていたアブラハムが75歳になった時でした。

創世記12章1節にはヘブライ語原文では לֶךְ־לְךָ֛ מֵֽאַרְצְךָ֥ וּמִמּֽוֹלַדְתְּךָ֖ וּמִבֵּ֣ית אָבִ֑יךָ אֶל־הָאָ֖רֶץ אֲשֶׁ֥ר אַרְאֶֽךָּ とあります。聖書協会共同訳では、「あなたは生まれた地と親族、父の家を離れ、私が示す地に行きなさい。」となっています。これを逐語訳すれば、「あなた自身に行きなさい、あなたの地から、あなたの生まれ故郷から、あなたの父の家から、わたしが示す地へ。」となります。字面の意味だけを考えて読めば、深く考えることもなく、読み流してしまうことになるでしょう。

逐語訳に従って、「トーラーの内面性」に「翻訳」してみると、以下のようになります。

  • あなた自身に行く: 本当の自分を見つける
  • (そしてそのためには以下から離れる)
  • あなたの地: 世俗的なこと(への関心)、つまり物欲
  • あなたの生まれ故郷: 生まれた時から慣れ親しみ習慣化してしまった結果、無意識にやってしまうということ、つまり一種のぬるま湯
  • あなたの父の家: (父とは知恵を表わす) -> 悪の知恵、つまり悪の性癖
  • (そして以下に行く)
  • わたしが示す地: 本当の霊性

つまり、魂という本当の自分を取り戻すためには、物欲を捨て、自分を世間のぬるま湯からあえて引きずり出し、悪の性癖を克服する必要があるということになります。どうでしょうか。こうなると、字面の意味だけからは創造もつかないような隠された深い意味があぶり出されてくるのを感じられるのではないでしょうか。そして「翻訳」されたこの教えだと、現代日本に生きる皆さんにとっても大きな関連性があるということにもなるはずです。

それでは具体的にはどうやって本当の自分を取り戻し、意識のレベルを高める、それによって有意義な人生にしていくのかということは講座とコーチングで詳しくお伝えしています。

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2024-08-16

ユダヤ流何事にも動じない方法

何事にも動じないようにするための究極の方法とでも言えるもので、私自身体験済みです。私たちが人生で経験することはすべては究極的には善であるという言われると皆さんはどう思われるでしょうか。そんな馬鹿なと思われるかもしれません。

しかしすべて人生の本当の目的である霊的成長につながるという意味では、すべては究極的には善なのです。このことが見えないのは、世界を見る自分の「眼鏡」が自我の思考という「汚れ」で曇っているだけなのです。

この講座ではこの信念が単なる頭だけの理解に留まらず、確信となって普段の生活と自分自身をも明るく照らしてくれるような実践的方法もご紹介します。具体的には以下のようなテーマを扱います。

  • 喜びが自然な状態である
  • 思考を切り替える
  • 心の持ち方を変える
  • 自我の幻想から抜ける
  • 心の平穏を得る
  • 「問題」の幻想から抜ける
  • 自我を手放し、魂を磨く
  • すべては善である

できるだけ多くの方にぜひ知ってもらいたいと強く願っている教えと実践です。

以下はまだエルサレムに住んでいた2022年3月にメンタリングとしてこの講座を提供した際に受けてもらった体験談です。ご本人の許可を得て、ここに再掲します。

体験談: 久保なつこさん

私はこのメンタリングを受けて、今までセミナーとコーチングを受けたのはこのメンタリングを受けるための準備に過ぎなかったのだという事をひしひしと感じています。

今まで受けたセミナーとコーチングも本当に素晴らしく、受ける前は人生がくすんでいたのに、受けた後では眩く輝く毎日がはじまり、そこから、この人生に何が起きても動じないメンタリングを受けて、受ける前の自分は死んでいた、いや死んでいる状況よりひどい地獄にいたんだなと実感しています。目の前にこんなに輝く毎日が広がっていたのに、全く見えていなかった過去の自分が哀れに思われました。それは衝撃、革命の内容でした。

今も、コーチとのやりとりを書いたメモを読むたびに、胸が熱くなり、喜びが胸の底から突き上げて来る感覚を覚え、また、読む日ごとに、見えてくる言葉の深い意味に毎日気付かされ一度受けただけなのに、それが継続的に私に人生の指針を示してくれ続けています。このメンタリングまで受ける事を全ての皆様にお薦めいたします。

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2024-08-02

出世競争に負け、人生に勝つ

以下は Rabbi Marc Angel の著書 Losing the Rat Race, Winning at Life の冒頭部分をまとめたものです。皆さんが人生の使命と目的を考え、ひいては人生を見つめ直すための参考になれば幸いです。私自身、少なくともイスラエルでは大学という職場が出世競争の場以外の何物でもなく、そこで定年までもう10年以上あくせくしている自分を想像できず、大学を早期辞職する決断を下す際にとても助けになった本の1冊です。

1 人生の本当の勝敗

  • 出世競争で負けなければ、人生に本当に勝つことはできない。
  • 人生をよく生きるとは、知恵を持ち、人生の意味を理性を超えて感じ、他者を愛し、共感し、助けることができることである。
  • これは、他人を負かすための戦いとして人生を見ないということでもある。

2 出世競争に捕われている人たちの特徴

  • 他人を負かすことに常にあくせくしている。
  • 嫉妬・欲・競争心に支配されている。
  • 人生の究極の意味が見いだせず、代わりに可能な限りの名誉・富・快楽を求めている。
  • しかし普通は邪悪でも腐敗しているわけではない。
  • 人生について深く考えることがなく、したがって自分の価値観と理想を守ろうとしなかったせいで出世競争に捕らわれるようになっただけである。
  • 社会が決めたレールに乗った人生を送るために自分の自由と自律性を放棄してしまっている。

3 出世競争の特徴

  • 外見・富・権力・人気・名声といった外面的なことに異常にこだわること
  • 人生は壮大な競争であり、他人に遅れることがあってはならないという思い
  • 他人が決めた規則を受け入れること
  • 自分の価値観を犠牲にしてまで周りに合わせようとすること
  • 責任ある選択をする自由を損なうような基準を自分のものにすること
  • 自分を昇進させるためなら倫理的基準を捨ててもいいと思うこと

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2024-07-26

意識の地図

すべての人に共通である人生の目的としての霊的成長を測るためひとつの方法として、自分の意識の段階つまり霊的波長を測るということが考えられます。その指標として David R. Hawkins がその一連の著作の中で提唱している「意識の地図」を簡単にご紹介したいと思います。

この根幹をなすのが以下のような17の意識の段階です。これらのうち最初の8つは幻想の自分に支配された段階で、残り9は本当の自分が支配的になっていく段階です。ただし、これは自分と他人を比較して、優越感あるいは劣等感を抱くためのものではありません。あくまで、自分が今どんな状態にあり、今後まだどんな成長の余地が残されているかを確認するためのものです。

  1. 罪悪感
  2. 無関心
  3. 悲しみ
  4. 恐れ
  5. 欲望
  6. 怒り
  7. 自慢
  8. 勇気
  9. 中立
  10. 意欲
  11. 受容
  12. 理性
  13. 喜び
  14. 平安
  15. 悟り

それぞれの段階の詳しい説明は例えば彼の著書 The Map of Consciousness Explained に譲るとして、これら17の言葉だけからご自身の意識の段階はどれになるのかということを想像してみてください。

この意識の地図は他のことにも応用が可能で、彼はこの本の中で依存症の本質そしてその発生と解決のメカニズムを、専門である医学の視点からではなく、この意識の地図を使って霊的視点から説明しています。以下ではそれぞれを簡単にまとめてみました。

依存症の発生メカニズム

依存症の人が依存するのはアルコールとの物質ではなく、真の自己の経験です。例えばアルコール依存症の人がアルコールを摂取するのは、意識の段階を高めようとしてのことです。例えば第5段階の恐れにある人がアルコールを摂取すると第15第階の喜びを一気に経験することができるようになります。ただし、この変化が引き起こされるメカニズムは、一時的に低い段階の意識が塞がれると高位自己が経験できてしまうというだけのことです。

確かに始めはこの摂取に効果があります。効果がなければ、誰も摂取しないでしょう。しかし繰り返し摂取し続けていくと、効果がなくなっていきます。人工的に作られた経験だからです。それどころが、逆の経験を生み出すようになります。意識の段階を登るには、まずは現実を受け止めることから始める勇気が必要だったのです。

依存症は霊的覚醒のひとつの方法です。この意味では依存症を恥じる必要はありません。アルコール等の摂取によってもたらされたのは、太陽を覆っていた意識の低い段階から発するエネルギーが取り払われ、太陽が元の輝きを取り戻した状態です。一旦この経験を味わってしまうと、それを取り戻すためにはどんなことでもするようになります。これは依存症を経験したことがない人には分からないことです。

依存症の解決メカニズム

依存症を解決する必要があるのは、それ自体が悪いからというよりも、その効果がなくなっていくからです。依存症が進行するにつれて、自尊心も失われ、本来塞がれているはずだった意識の低い段階のエネルギーがまた頭をもたげてくるようになり、病気・離婚・解雇といった人生の辛い経験をするようになります。こうなると悪循環に陥り、多くの人は依存症という事実を否定するようになります。

解決のための最初の1歩は敗北宣言のように見えるかもしれませんが、依存症という事実を認めることです。この第1歩を踏み出せるようになるのは、普通は落ちるところまで落ちないとできません。しかし一旦この第1歩を踏み出すことで、意識の段階は第9段階の勇気まで一気に上昇します。したがってこの1歩は依存症解決のためには決定的な重要性を持つ1歩であると言うことができます。

個人的感想

アルコール依存症とそれに起因する喪失、そして問題の解決とそれに伴う覚醒を直接体験した後でこの文章を読むと胸が詰まります。特に、この問題が最大の原因の1つとして私の元を去っていった元妻を含め、アルコール依存症ではない周りの誰からも理解されなかったことを思い出すと、胸が痛みます。しかし他方で、アルコール依存症に陥った本当の理由は自分の霊的波動を高め、それを維持したかっただけなのだと聞かされると、心も休まります。

もちろん、誰かを恨むとかは全くありません。それどころか、アルコール依存症という苦難を経験できたことに対して深い感謝の念すら感じます。私と同じようにアルコール依存症を解決した人の多くからも同じ言葉を聞きました。ただ、これも同じ経験をしていない人には理解できないものかもしれません。

そしてこのこと、つまり直接体験をしないことには本当には理解できないということは他の試練にも当てはまるのでしょう。

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2024-07-19

人生の使命と目的

とても気に入っているハシディズムの教えのひとつに、誰にとっても人生で最も大切な共通の2日があるというものがあります。これまで講座・コーチングを受けてもらった方々の一部にはお話しました。それ以外の皆さんは、どの2日が人生で最も大切なのか、そしてそれはなぜなのかということを今考えてみてください。そして答が出てきたら、この続きを読んでください。

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まずは生まれてきた日です。なぜかというと、言ってみればその日はあなたがいなければ世界は成り立たないと宇宙が決めた日だからです。次にはなぜ生まれてきたのかが分かった日です。なぜかというと、この日を境に、人生という旅の行き先がはっきりした日だからです。この行き先は人生の使命と目的と呼ぶことができます。

この両者には違いがあります。人生の使命とは対外的なもので、社会・世界にどんな貢献をするかになります。これに対して、人生の目的とは対内的なもの、自分をどう霊的に成長させるか、具体的には自分のどんな徳を高め磨くかになります。例えば、忍耐力や思いやりとかがその例になるでしょう。

1人ずつ決まっている人生の使命と目的は、魂が人生でどんな肉体を借りるか、そしてどんな人生を経験するかを決めるとされています。逆に言えば、人生の使命と目的を知っていれば、人生で遭遇する経験を最大限活用するような人生の賢い選択が可能になるということにもなります。ここで注意する必要があるのは、使命と目的をそれらを叶えるための手段や方法と混同してしまわないことです。

皆さんは自分の人生の使命と目的はもうお分かりでしょうか。中々難しいですよね。これらを見つけること自体がある意味で人生の目的でもあるとすら言われています。

かく言う私自身、自分の人生の使命が分かったのは、2017年11月から10週間合計50時間、当時まだ住んでいたエルサレムでユダヤ式ライフコーチングを受けることででした。これによって、それまでの人生を根本的に見直す機会になりました。もっと具体的には、大学で言語の研究をすることは、自分の人生の使命ではないだけでなく、それを叶えるための手段や方法ですらないことまでが突然はっきりを分かったのです。

それで結局大学は早期辞職して、このユダヤ式ライフコーチングを日本に住む日本語話者を対象にオンラインで伝えるという仕事を始めました。当初はこれが使命だと錯覚していましたが、その後これはひとつの方法であることに気づき、昨年9月末に日本に一旦移り住んでからは、ユダヤ流人生の知恵というオンラインの私塾を立ち上げ、このユダヤ式ライフコーチングだけでなく、ユダヤ流人生の知恵を様々な視点からご紹介する色々な講座も始めることになりました。そしてこのユダヤ式ライフコーチングでは、私自身も受けた通常8回のものだけでなく、色々な質問を人生の使命あるいは目的を見つけてもらうことを目指した単発のコーチングも提供しています。

人生の目的の方は分かったのが実は何と今月初めの土曜日でした。日がまだ長い夏の間の土曜日の日没前の1時間、1人自然の中を散策し、黙考するというここ3年来の毎週の習慣の途中で、自分の人生の目的を表す2語が突然ひらめいてきたのです。これら2つの徳を高め磨くことが人生の目的ということになります。

これら2つの人生の目的という観点からこれまでの人生経験をずっと見直してみると、繰り返し起きるあるパターンがあることをすぐに気づいただけでなく、これらの目的を叶えるために最適化されたものであることも分かり、人生はうまくできているものだと大きな感動すら覚えました。

人生の使命が分かった時には、人生という旅の視界が良好になったことを覚えていますが、今回人生の目的も分かり、視界はさらに明瞭になった気分です。

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2024-07-12

頭の知能(指数)・心の知能(指数)・魂の知能(指数)

単に知能(指数)と言うと、頭の知能(指数)を指すのに対して、心の知能(指数)、そして魂の知能(指数)というものが提唱されています。心の知能(指数)の方は聞かれたり読まれたりしたことがある方も少なくないはずですが、魂の知能(指数)の方は馴染が薄いかもしれません。

魂の知能(指数)という考え方に初めて触れたのは今から約6年前になり、それから当時色々探してやっと見つかった数少ない英語の本を貪るように読んだことがあります。

しかしこれら3種類の知能(指数)はそれぞれ独立した「点」として私の中では存在してきました。それが、先週と今週教えることになったある2つのことを準備している際に、突然これらの「点」が1本の「線」としてつながっただけでなく、それぞれの「点」が「面」になるような洞察を得ました。

頭の知能の代表的なものの1つは言語能力でしょう。具体的には、聞く・話す・読む・書くという4つになります。これに対して、心の知能の代表的なものとして、言語能力に対応するのがコミュニケーション能力になるはずです。聞く・話すに対して、やりとりするということになるでしょう。

そして対人関係におけるやりとり、つまりコミュニケーションにおいて、言語(能力)は核にはなるものの、それだけでは有意義なやりとりには不十分で、もっと大切な能力がいくつもあります。例えば、そのひとつである共感力を考えてもらえば、これが心の知能であることは分かっていただけるはずです。さらには、心の知能は頭の知能の上に成り立っている、つまり両者は階層になっているのではないかということも思い浮かびました。

さらには、心の知能の上に成り立っていると考えられるのが魂の知能です。これも動詞1語であえて表せば、つながるになるでしょうか。相手と本当につながるためには、言語コミュニケーション・非言語コミュニケーションを超えたものが他に必要になるのは何となく想像してもらえるのではないでしょうか。

最後に、頭の知能(指数)・心の知能(指数)・魂の知能(指数)、具体的には聞き話す・やりとりする・つながるという3つの階層を、様々な対人関係の中でも親子関係と並んで大切な夫婦関係に当てはめて考えてみましょう。

母語あるいはそれ以外の言語であっても、ある言語を共有する、つまりその言語で聞いたり話たりすることに全く問題がない男女が初めて会ってやりとりする場合、言語能力だけでは初対面ですら不十分であり、その後交際を続け、結婚に至り、結婚生活を続けていく場合はさらに不十分であることは、ご自身の経験からも簡単に想像してもらえるはずです。

夫婦間でやりとりができていれば、つまり心の知能のレベルで満足できていれば、それで結婚生活は満足だという方も少なくないかもしれません。でもそういう方たちの場合、魂の知能のレベルでの満足感もあることを知らずにいることもありそうです。

例えばハシディズムが教える有意義な結婚生活における究極の目標は夫婦が魂のレベルで本当につながることです。この目標に至るための様々な具体的な教えがあり、その多くは日本で常識とされていることと反することですが、聞いてもらえれば、なるほどとうなずかされるものばかりです。

こうした様々な具体的な教えをあえて一言でまとめれば、夫婦が本当につながるために必要なのは、両者を物理的・知的・感情的・霊的に隔てる有形無形の障害物を取り去ることです。

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2024-07-05

ある問題を引き起こしたのと同じレベルの意識のままではその問題を解決することはできない

このような主旨のことをかのアインシュタインが言っています。頭だけの理解だけではなく、自分の(それも痛い思いをして得られた)直接体験の後ではこの言葉の重みがはるかに増します。

この言葉通り、まだエルサレムに住んでいた頃にある大きな内的問題を抱え、それが自分だけでなく周囲にもさらなる問題を引き起こすようになって、外圧もあって受けた心理カウンセリングは、今思えば、この問題を引き起こしたのと同じレベルの意識のままでその問題を解決しようとするものでした。結局、問題は悪化し、カウンセラーももうお手上げで、もう来るなと言われて、1年半続いたこの心理カウンセリングはあっけない終わりを迎えました。

偶然にもその直後に同じくエルサレムで受けることになったグループでのユダヤ式ライフコーチングは、これまた今思えば、まずは意識のレベルを変えることで問題解決のための土台作りをすることから始めるもので、10回のセッションで自分でも驚くような変化が訪れることになりました。そしてこの変化に感動して、このコーチングの元になっているユダヤ教のハシディズム、より正確にはその心理学をエルサレムの特別な学校で3年間体系的に学んだことはこれまでにもお話しした通りです。

こうした直接体験を経た後では、意識のレベルは変えないまま、その低いレベルの意識が引き起こした問題を解決しようとしている人たちに遭遇してしまうと、他人事ながら、とてももどかしく感じてしまいます。そしてこのもどかしさは三重のものでもあります。

まずは、自分の意識のレベルをまずは変えなければ、問題の根本的な解決にはつながらないことをこうした人たちは気づいていないとしか思えないことに対するもどかしさです。次に、自分の意識自体が問題であるということにもおそらく気づいていないことに対するもどかしさです。最後に、この2点を言葉で説明しても、本当には理解してもらえないことに対するもどかしさです。

この問題は個人だけでなく社会集団にも見受けられます。後者の例のひとつがエスペラント運動です。運動自体にはそれほど深くかかわってはいなかったものの、その中核となるエスペラント語には大学勤務時代かなり深くかかわっていました。ユダヤ式ライフコーチングを受け、さらにはその元になっているハシディズムを学んだ後では、この運動ももどかしくおもえてならなくなりました。

エスペラント語の提唱者であるザメンホフが考えたエスペラント運動の究極の目的である人類の統合の最大の障害にになっているのは、皮肉にもエスペラント語そのものであるという思いは増す一方です。

ザメンホフが考えたように、人類を分断しているものが言語だとすれば、言語をもってしてはこの問題を根本的に解決することはできないのです。理想はともかくとして、少なくともこれまで私が直接体験してきた限りでは、エスペラント語を通してエスペラント運動というあらたな集団自我を生み出してしまったにすぎないのです。

レッテル貼りという言語の闇の部分を意識し攻略しないかぎり、いくら「中立的」言語を考案して使ったとしても、人類の統合は見果てぬ夢のままに終わってしまいます。実際、個人のエスペランティストたちによる個人的・集団的レッテル貼りはは直接的にも間接的にも何度も何度も遭遇してきただけでなく、エスペラント運動の世界的組織がマスゴミのプロパガンダを盲信してある集団を悪魔化していることを最近目撃しました。

ザメンホフは当時のロシア帝国領内では珍しかったユダヤ啓蒙主義者の父を持っていました。つまり一種の理性盲信者でもあったわけです。当時すでに広まっていたハシディズムという理性を超越する教えに触れることができていれば、彼の言語観も根本的に変わっていたかもしれません。

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2024-06-28

すべてを知らなければいけないという強迫観念からの解放

19年ぶりにイスラエルから日本に移り住んでみると、様々な文化的な違いはたしかに目につきはしますが、それよりも両社会だけでなく、おそらく世界中すべての社会にも当てはまると思われるある根源的な共通点の方にはるかに目がいきます。それはどの社会でもほとんどの人は自我の幻想に支配されて生きているだけでなく、このこの自体にも気づいていないように見受けられることです。

多くの人とその人生を支配している自我の幻想の最たるものがその思考の幻想です。そして自我の思考の中でも見ていて特に気の毒になるのが、すべてを知らなければいけないという強迫観念です。これは学校教育という一種の集団洗脳の影響もあるかもしれませんが、誰かあるいは何かについてすべてを知らなければいけないという思いにかられて頭を悩ませたり詮索したりする一方で、あるいはそうすればそうするほど、その誰かあるいは何かの本質からはどんどん遠ざかっていってしまっているのです。

例えば、誰かの名前やこれまでの経歴をいくら知ったところで、その人の本質を知ることにはならないのに、多くの人はどうしても前者にこだわってしまっているようです。

これよりも厄介に思えるのは、すべての問には人間の限られた理性で導き出せる答が必ずあると思い込んで、ああでもないこうでもないと、これまた頭を悩ませたり詮索することです。これは知識欲とは本質的に異なる、一種の強迫観念に思えてなりません。

そもそも、情報や知識だけを溜め込んでも、有意義な人生に直結するとは思えません。本当に大切なのは知恵の方であるという思いは強まる一方です。知恵を伴わない知識は危険にすらなります。この意味で、断片的としか思えない知識の量だけを子どもたちに競わせるようなクイズ番組は、出演している子どもたち本人に壮大な勘違いをさせ、見ている子どもたちにも間違ったメッセージを送ることになっていないかと心配です。

人生には知り得ないこともあるという事実を受け入れて謙虚になることも知恵の大切な一種でしょうか。そしてすべてを知らなければいけないという強迫観念から自らを解放することで、自分という器に溜まった、あるいは詰まった思考のゴミは処分され、それによって空いたところに宇宙の叡智とでも言うべきものが、例えば直感という形で降ってくることは身を持って体験するようになりました。

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2024-06-21

日本では皆一体何にそんなにビクビクしているのか

まだイスラエルに住んでいて、講演を名目に日本に大体毎年1回来ていた頃も、去年の10月始めから日本に移り住むようになってからも、とても心配になる社会的な現象があります。それは多くの人が何かにビクビクしているようにしか見えない、感じられないことです。

これが個人レベルに留まらず、集団レベル、そこには否定的なエネルギーが充満してしまい、昔は自分までこの否定的なエネルギーに感染してしまうのを感じたものでした。それが自分でも驚くことに、エルサレムでハシディズムを体系的に学んだ後はこの感染がなくなったのです。

ハシディズムは喜びの教えとも言うことができます。喜びとは特別な状態ではなく、私たちの本質である魂の自然な状態なのです。生まれたばかりの赤ちゃんを見てみてください、あるいは思い出してみてください。皆喜びに溢れていますよね。これが本来の状態なのです。

それが、社会化が進むにつれて、世間の常識の名のもとに一種の集団洗脳を無意識に受け、少しずつこの喜びの光が覆い隠されていくようになります。自然な笑いの表情が消えていき、しまいには無表情になってしまいます。

恐れには、例えば肉体の生存を脅かされた時に感じる正当な恐れと、自分の思考が生み出す空想上の恐れとがあります。多くの人が何かにビクビクしているは後者になります。

それでは一体何にビクビクしているのかをずっと考えてきました。これまでのところたどり着いた暫定的な結論は、同調圧力のせいもあって、どうしても周りの目が気になってしまうからではないかということです。さらにそれではなぜ周りの目が気になってしまうのでしょうか。これについては、周りから嫌われるのが怖いからではないかと想像しています。

周りから嫌われないようにと考え続けていると、結局、自分の発言や行動だけでなく表情までをも自己検閲してしまうことになります。こうした自己検閲の最大の犠牲になるのが喜びの光です。ハシディズムの教えという一種の防御壁のおかげで感染はしなくなったものの、ビクビクしているような人たちに会う度に、その闇を光に変えてあげたいという思いが今でも高まります。

ビクビクしながら生きるのとはまったく異なる生き方があるということを言葉だけで伝えようとしても、残念ながら、どれだけ伝わっているのかは自信がありません。プラトンの有名な「洞窟の寓話」にあるように、生まれてからずっと洞窟でしか暮らしたことがない人たちに、洞窟に外には広大な明るい世界があることを言葉で説明しても、なかなか信じてもらえないようなものでしょうか。もどかしいです。

こうした洞窟の外の世界に触れることで、本来の喜びを取り戻すための講座とコーチングを日本での一種の使命として提供しています。変化に必要な第1歩は行動に出ることです。

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2024-06-14

ユダヤ流人生の選択の方法

進学・就職・結婚といった大きな選択から、今何をするか(あるいはしないか)といった小さな選択まで、人生において私たちは常に選択を求められています。その際に皆さんはどんな基準に基づいてそれぞれの選択をされていますか。すべての選択はある共通の確固たる基準に基づいてなされるものですか、それともその時々の思いつきでなされるものですか。

人間を動物と分ける最たるものが、言語と並んで、自由意志に基づいて選択することができるということです。しかし、日々の生活で繰り返しなされる小さな選択だけでなく、場合によっては大きな選択ですらも、意識的になされる代わりに、いわゆる「自動操縦モード」で無意識・条件反射的に、あるいは「常識」や同調圧力といった社会の集団自我の声に押されて選択をしていることが少なくないはずです。

選択が自由にできるということには責任も伴います。まずは自分自身に対する責任です。そして多くの場合、自分の選択は周囲にも大きな影響を与えることになります。それでは、どんな場合でも意識的に、しかもぶれない選択をするには、その基準としてどんなものを据えればいいのでしょうか。

今大きな選択を迫られている方、あるいは今後そうなった場合に、そして普段の生活の中でも、共通の確固たる基準を知りたいという方はこの講座ぜひ受けられてみてください。自分が知らないということ自体をこれまで知らなかったことを知ってもらえるはずです。

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2024-06-07

レッテル貼りと言語化

30年近く携わってきた言語研究をやめることにした最大の理由のひとつは、覚醒の一環として言語の本質の負の側面に気づいてしまったことです。それはレッテル貼りという言語の本質的な機能です。少なくとも霊的には不可分の統一体・単一体である宇宙を恣意的に分節するのが言語のこの機能です。

例えば、何かに名前をつけてしまったら、もうその名前というレッテルを通してしかそのものを見れなくなってしまうのが普通です。これは他人の名前だけでなく、自分に貼りつけられた名前でも同じことです。名前こそが自分だという幻想を抱かないことが難しいくらいです。

名前以外のレッテル貼りは日常生活でもごく一般的です。例えば、出自・学歴・職歴といったもので他人にそして自分にするレッテル貼りです。これによって、その他人そして自分の本質からはどんどん遠のいていってしまうことになります。

こう考えると、本来私たちの下僕であるべき言語が私たちの主になってしまっているというになります。言語の本質について、言語学界のある重鎮が書いた文章を読んでも、気鋭とされる言語学者が書いた本を読んでも、こうした言語の負の側面にはまったく気づいていないことがよく分かりました。つまり、言語学をいくらやっても、言語の本質はおそらく見えてこないのです。

今から3年ちょっと前に大学を早期辞職して、言語研究もやめた後ではこういう思いは強まる一方でしたが、言語の持つある肯定的側面にも気づくことができ、使い方次第では言語を下僕としなおすことも可能であることを痛感しました。

それは言語化です。特に、5月に集中的にコーチングを受けてもらったカップルがこの言語化にとても敏感に反応してくれるのを見て、2人の発見の助けになれたと感じさせられ、こちらまでとても嬉しい気分になりました。

ここでいう言語化とは、これまで混沌としていたことに言葉の助けを借りて概念的秩序を与えることです。レッテル貼りが全体の中の一部だけを取り上げて、それがあたかも全体を表すものであるかのような幻想に浸ることであるとすれば、言語化とは散り散りバラバラだったものを一語で統合することであるとでも言えるでしょうか。

つまりレッテル貼りと言語化は対局にあるとも言えるでしょう。両者の違いは、レッテル貼りに使われる言葉は死んだ言葉であるのに対して、ここでいう言語化に使われる言語は生きた言葉であるとも言えそうです。

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2024-05-31

誰かについて知ることと誰かを知ることの本質的な違い

日本に移り住んでから感じるのは、国や文化は違っても、おそらく世界中の多くの人の間に存在するであろうある共通点です。残念ながら、それは否定的な共通点です。しかしそれを克服することも可能です。

この否定的な共通点とは、誰かについて知れば知るほど、その人を知ることにつながるという思い込みです。誰かについて知るとは、端的にはその人の経歴、つまり人生体験の軌跡を知ることです。

しかし実際には人生体験とはその人が体験したことであって、その人そのものではありません。つまり経験には経験者がいるということであり、経験の目的語は経験者ではありえません。そしてこの経験者こそがその人そのものなのです。

この両者を混同して、誰かについて知れば知るほど、皮肉にもその人の本質からはどんどん遠のいてことになります。なぜかと言えば、この本質とは基本的に無関係なレッテル貼りをどんどんしていくことで、一種の虚像を自分の頭の中に作り出していくことになるからです。そして最も厄介なレッテル貼りとは自分に対するレッテル貼りです。残念ながら、この幻想に気づいている人はどの国でも多くありません。

少し前にこの落とし穴に気づくようになってからは、そこに陥らないようにするための自己防衛策として個人的に実践し続けていることは、誰か新しい人に初めて会った時には、その人については敢えて何も聞かずに、その人のエネルギーを感じるようにすることです。

これはその人に対する無関心を意味するものではありません。実際はその逆です。その人の本質を知るための邪魔になることが多いことからは敢えて自らを遠ざけておくということです。今後の成長次第では、このような自己防御策が不要になる日がやってくることもあるかもしれません。

この最後の点にも関係するある忘れられない衝撃的な体験を比較的最近したことがあります。通算で24年間住んだエルサレムを昨年9月末に離れる2日前に同じくエルサレムに住むある高名なラビに相談に行った時のことです。このラビは人の魂が読めると噂されていて、彼のたった数分間の助言を求めるために、世界中から色々な人たちが彼の元を訪れます。会いに来た人たちについて質問は一切なく、相手の目をじっと見つめるだけで、その相手が求めている人生の助言をしてくれるのです。私自身、このラビにお会いして、目を見つめられた時に、瞬時に本質を見抜かれたと感じ、その直後に彼から受けた人生の貴重な助言は魂と深く共鳴する内容でした。

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2024-05-24

問題解決のために必須の第1歩

人生で遭遇する様々な問題を含む、おそらくどんな問題であっても、その解決のために必須と思われる共通の第1歩は何だと皆さんは思われますか。

それは自分が問題を抱えているということを自覚することです。周りからその問題を指摘されるだけでは不十分なのです。問題を自覚することで、それを解決するための重い腰を上げることにつながります。つまり問題解決のために必須の第1歩ということになります。

それでは問題を自覚するのはいつなのでしょうか。それは残念ながら多くの場合、その問題が自分あるいは周囲にもたらす苦痛が無視できないレベルまで達してしまった時です。これを目覚まし時計に例えると、まだ鳴り音が弱いときは無視して眠り続けるものの、すこしずつ鳴り音が大きくなるにつれて無視できなくなり、しまいには目を覚まさざるをえなくなるようなものです。

こう考えれば、問題が引き起こす「鳴り音」がまだ弱い時に目を覚ませばいいようなものですが、大多数の人はこれができません。かく言う私自身、こうした大多数の1人でした。

落ちるところまで落ちてしまうことで、多くの場合、人は謙虚になることができます。自分の無力さを痛感するからです。自分には問題があることを謙虚に認めた時に、光が指し始めることになります。ただし、このわずかの光を頼りに解決までへと独力で到達するのは至難の業です。

私がこの「ユダヤ流人生の知恵」という私塾の枠組で、講座と並んで皆さんに提供しているコーチングはこの助けになれればと思ってやっているものです。私自身、この同じコーチングを通して、自分がはまり込んでしまった深い闇から抜け出し、光を見ることができるようになった体験をまだ1人でもがき苦しんでいる人たちにもぜひ体験してもらいたいと強く願っています。

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2024-05-17

噂話の不毛さと危険性

日本に移り住んで以来突き合わせられる機会が増えた話がその場にいない第3者についての噂話です。聞かされる度に不毛さと危険性を感じてしまいます。

不毛さを感じるのは、噂話というのが基本的には他の人による自我の思考の解釈だからです。同じ理由から、例えば料理番組で芸能人たちが垂れ流す料理についてのコメントにも同じような不毛さを感じます。言ってみれば、視聴者としての私たちにとってはその場にいあわせていない料理という第3者についての一種の噂話だからです。

人を知るにしても、物を知るにしても、その王道は言語を介さないで直接知ることだという思いは強まるばかりです。この理由から、誰かに初めて会った時には、その人について本人にはあえて何も質問せずに、その人の存在、つまりその人の霊的エネルギーを感じるようにしています。ここで中途半端にその人について知ってしまうと、レッテル貼りになってしまい、直感が狂わされてしまうからです。誰かあるいは何かについて知ることと、その誰かあるいは何かを知ることの間には本質的な違いがあります。

噂話というのは、自分のよるレッテル貼りからさらに1段階隔離された別の人によるレッテル貼りということになり、その不毛さはさらに増します。

噂話は、その性質上、陰口に発展してしまう危険性も低くありません。その場にいあわせていない人の悪口を言うことは3人を(比喩的・霊的に)殺すことになるというユダヤ教の教えがあります。その3人とは、悪口を言う人、聞かされる人、そして陰で悪口を言われている人です。

悪口を言う人と聞かされる人に悪影響が及ぶことは簡単に想像がつくはずです。陰で悪口を言われている人にも悪影響が及ぶのは、言葉が持つ一種の霊的な力のせいです。悪口を言われると、その悪口の対象になったその人の欠点が増すと言われています。逆に、その場にいない誰かの良いことを言うと、その人の利点が増すと言われています。

誰かあるいは何かについて何も良いことを言うことがない場合には黙っているのがいいということをある人から教わり、それ以来、普段の生活でも実践するようにしています。ただ、これは不正に対して抗議の声を上げることは含まれないはずです。つまり直接本人にであれ、陰でであれ、悪口を言うことに対する戒めということになります。

誰かが言う陰口につき合わせられそうになったら、可能であれば、その場を去るようにしています。その陰口によって殺されることになる3人の1人にならないようにするためです。

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2024-05-10

名前が生み出す自我の幻想

自分とは誰かと問われた場合、多くの人が普通最初に出す答は名前なはずです。名前は究極的には言語によるレッテル貼りにすぎないにもかかわらず、名前が自分だと、あるいは名前が自分のアイデンティティーの大切な一部だと、少なくとも無意識に思っている人は少なくないでしょう。

しかし名前が与える自分とは幻想の自分であって、これによって本当の自分が覆い隠されてしまっているということになります。別の言い方をすれば、人間の成長の過程において、まずは親から呼ばれ、それから周囲の人たちからも呼ばれるようになる名前を自分と結びつけるようになると、幻想の自分としての自我による支配が確立します。

それでは名前はどうやって自我の幻想を生み出すのでしょうか。自我というのは、自分は独立の存在だという幻想です。自分も周りの人たちもそれぞれが独自の名前を持っているのを見て、自分も周りの人たちも名前という一種の境界によって仕切られた独立の存在だという幻想を抱くようになるのです。

これが幻想にすぎないことに、頭だけでなく、直接体験として気づくことは簡単なことではありません。私自身、これに気づくことができたのは、今思い返せば、ほとんど奇跡としか思えません。この文章も一部の方々には意味不明に聞こえてしまうことでしょう。それほど名前が生み出す自我の幻想は巧妙かつ深淵なのです。

いずれにしても、この幻想から目を覚ました後の視界は以前とは全く別物になりました。目を覚ます前の視界は例えて言えば霧の状態です。それなのに現実がはっきり見えているものとばかり思い込んでいました。目を覚ました後に目に入るようになってきた現実はこれまでとは全く別物です。それでもまだどれだけ霧がかかったままになっているのかは自分では分かるすべがありません。

人間社会を営んでいくためには、魂の借り物である肉体に名前だけでなく国籍や様々な番号をつけるのは一種の必要悪でしょう。便宜上、名前を使い続けはしても、そして名前というレッテルによって自我の幻想が生み出されていること、したがって名前は本当の自分そのものではないということを忘れないようにして生きることは可能です。

まだ言語学を職業にしていた頃、その最後の数年には辞書学と並んで人名学も研究対象にしていました。イスラエルの大学で教えた数々の科目の中で、群を抜いて学生たちから好評だったのが、ユダヤ人名学でした。その後、奇跡とした思えない経験を通して自我の幻想から目が覚め、言語一般、そして特に名前が自我の幻想を生み出すのに大きな貢献をしていることにも気づくようになると、人名研究に対する興味は一気にしぼんでしまいました。

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2024-04-19

ユダヤ流怒りの飼い慣らし方・ユダヤ流喜びに至る方法

怒りは一般に最も否定的な感情の1つとされています。怒り自体が精神衛生上有害であるだけでなく、怒りに支配されたまま自制心を失い、変なことをしたり言ったりしてしまうことで、取り返しのつかない害を自分にそして他人に加えてしまうということもめずらしいことではありません。

それでは怒りとは一体どこから来ているのでしょうか。ハシディズムが教える答の1つは傲慢さです。この教えによれば怒りは偶像崇拝の一種とすらされています。

しかし怒りは悪いことだらけではありません。怒りはある深いことを私たちに教えてようとしてくれているのです。それは背後に隠されたもっと深い感情です。この意味では、怒りは魂の叫びと呼ぶこともできます。

怒りの出どころとその深い意味を知ることで、怒りを飼い慣らし、引いては人間関係を飛躍的に完全することも夢ではありません。かく言う私自身、こうした教えに基づいて怒りを飼い慣らすことに成功した1人です。

今ではほとんど怒らなくなりました。ただし、唯一の例外があります。それは社会的不正に対して感じる怒りです。

怒りの対局にあるものの1つとして喜びというものを捉えられている方もおられるかもしれません。しかし両者の間には、否定性と肯定性という違いの他に、ある本質的な違いがあります。それは怒りは基本的には一時的な感情であるのに対して、喜びは恒常的な状態です。

怒りが中々収まらないというのは、怒りについて考え始めてしまうからです。思考が感情を固定してしまうのです。

喜びは恒常的な状態であるだけでなく、実は本当の自分の自然な状態でもあるのです。分かりやすい例えとして太陽とそれを覆う雲を考えてみてください。雲が出て太陽の光を覆い隠しているように私たちの目には見えることがあっても、太陽は常に光り輝いています。

太陽の光を覆い隠す雲に当たるのが様々な否定思考です。こうした否定思考を肯定思考に変えていくことで雲をケチらずだけでなく、そもそも雲がかからないようにすることが可能なのです。その最たるものが人生で遭遇する試練をどう受けとめるかを変えることです。

このようにして喜びを覆い隠している様々な雲を少しずつ取り払っていくことで、喜びを恒常的な状態にすることも夢ではありません。ここでもかく言う私自身、こうした教えに基づいて喜びという自然な状態を取り戻した1人です。

来月と再来月には「ユダヤ流怒りの飼い慣らし方・ユダヤ流喜びに至る方法」という講座を開講する予定です。上の言葉に何か感じるところがあり、自分を変えてみたいと思われる方はぜひご参加ください。

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2024-04-12

無知の無知から無知の知への移行

知るということには以下のような4つの種類があると言われています。

  • 自分が知っているということを知っている
  • 自分が知らないということを知っている
  • 自分が知らないということ自体を知らない
  • 自分がなぜ知っているのかが自分でも分からない

2つめは無知の知という言葉でも知られています。これに倣えば、3つめは無知の無知と呼ぶことができます。

無知の知の場合、自分の無知のせいで何らかの不利益を被っている可能性があるという問題意識があるので、その無知の対象の話を誰かからされれば、自分でもなるほどと理解できるのが普通です。

これに対して、無知の無知の場合、何らかの不利益を被っている可能性があるという問題意識がないので、その話をされても、なるほどとは理解できないのが普通です。

この私塾「ユダヤ流人生の知恵」で皆さんにご提供している色々な講座とコーチングの元になっているハシディズムという教えは、ユダヤ世界のおいてすら多くの人にとっては無知の無知に属するものです。

かく言う私自身、このハシディズムという教えについて同じ状態でした。それが様々な偶然が重なって、エルサレムに住み始めて10数年も経った数年前にこの教えに触れ、体系的に学ぶことになりました。

最初の衝撃は今でも忘れられません。自分が知らないということ自体ずっと知らないできたこれだけ深くて広い世界がずっと存在していたこと、そしてその脇を自分がずっと素通りしてきたことを悟ったからです。

この最初の衝撃の後に訪れたのは興奮と熱狂でした。エルサレムになる専門の学校でハシディズムを体系的に学び始めた頃は、友人・知人たちには誰でもこの教えのことを熱く語っていたものでした。

その後、こうした最初の興奮と熱狂は落ち着き、一種の安定飛行状態に移行しましたが、今でも1人で学び続けているハシディズムの教えにはいつも感銘を受けます。そしてその度に、この教えをもっと多くの人に知ってもらいたいという強い思いを感じます。

しかし残念ながら、この投稿の最初で簡単にご説明した通り、色々な人たちにも無知の無知から無知の知へと移行してもらうという無謀な試みは今のところ輝かしい成果を挙げられないでいるのが現状です。

私の場合、それまで色々な偏見を持っていたハシディズムの教えに関して、無知の無知から無知の知恵へと移行することができたのは、大きな試練を体験したおかげだという結論に達しつつあります。この試練のお陰で謙虚にならざるをえなかったからです。

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2024-04-05

常に待機状態のままで人生を終わらないために

先週の投稿でお話した「今を生きることの大切さ」に関連して、今を生きることを妨げることの中でも普通は気づかないでいることを1つ独立の投稿としてご紹介したいと思います。

日本には多そうな完璧主義が災いしてしまい、準備が完全に整うのを待つあまり、結局行動に移すことなく終わるという問題です。それではこの待機状態にある間、どこに行きているかというと、今を生きる代わりに自分の思考の中に生きているということになります。

前回の投稿でお話した過去の後悔と将来の不安という思考の中に生きているのとは異なりますが、今を生きていないという点では一緒です。

待機状態のままで人生を終わる極端だけれども珍しくもなさそうな例としては、今は嫌々ながら続けている仕事に対する一種のご褒美として、定年になったら自分の好きなことをしようという考え方です。例えば身体的健康といった定年前には想定していなかったような事情が生じてしまい、結局、定年後はその好きなことができないでしまったという例も何度も見たり聞いたりしてきました。

例えば仕事の分野で、今の仕事に代わる本当にやりたいことが見つかったのであれば、事情が許す限り、転職も考えてみるべきではないかと思います。私自身、そう痛感して、大学を早期辞職しました。単なる思考の産物で終わるだけかも知れない定年後の「安定」の代わりに、今を生きることを選択したと言うこともできます。

もし大学で定年まで勤め上げることにしていたとしたら、牢獄になってしまった職場に10年以上もの間囚われたまま、定年後の「安定」のためだけに今を生きることを犠牲にすることになっていたと思うと、今でもぞっとします。

このようにその後の人生を大きく左右するような場面以外の普段の生活でも、待機状態のままで、今を生きることを犠牲にしてしまっていることは色々あります。例えば、待ち合わせや乗り物の出発時間が近づいてくるとそわそわしだして、心が今にあらずという状態になることです。

日常生活でのこうした小さなことで今を生きることを犠牲にし続けていれば、それが積み重なって、常に待機状態のままで人生を終わってしまう危険性があることは想像に難くないはずです。これを避けるためには、旅は目的地に着くことだけでなく、道中を一瞬一瞬楽しむことも大切なのではないでしょうか。

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2024-03-29

今を生きることの大切さ

おそらく例えば歴史教育や言語教育のせいで、普通私たちは過去と未来は存在すると思っています。しかし実際にはどちらも実体としては存在せず、私たちの中の思考としてしか存在しません。この意味で、つまり実体験として過去を生きた人は誰もいません。

実体として存在する唯一の時間は今であり、今とは永遠でもあります。もし今を生きなければ、本当の意味で生きているということにもなりません。

ところが実際はというと、多くの人は今を生きていません。その最大の理由は過去を後悔したり、将来を心配したりししてしまうことで、心が今にあらずという状態になってしまうからです。実体験できる唯一の時間である今が思考によっていわば乗っ取られた形になってしまっているということです。

そしてこれはおそらく他の動物には見られない人間だけの現象だと想像されます。これは人間が言語を獲得した一種の重い代償のひとつです。こう考えると、言語を使っているようで、実際には言語に使われてしまっているということにもなります。

ただし、今を生きるということを例えばマインドフルネス瞑想とかを通して学んだことがない人でも、今を生きることになる時があります。例えば、何かに熱中して無心になった時です。ここでいう無心とは、今を直接体験することを妨げる雑念がなくなった状態です。

私自身の例を挙げれば、思考の波が止むことに後で気づくことになったのは、まだエルサレムに住んでいる時に、世界でも数少ない専門家から習った東欧ユダヤ民俗ダンスを習ってからです。踊っていると思考の波がぱったりと止むのです。

その後はマインドフルネス瞑想を続けたり、学びを続けたりすることで、踊っていない普通の時でも今を生きているということを感じられる時が少しずつ増えていくようになりました。

今を生きることが大切なのは、今を生きる代わりに過去や未来を考えてばかりいると、最初に書いたように、人生を本当に生きないままに一生を過ごしてしまうことにもなってしまうからです。

さらには、今を生き始めるようになると、これまで自分だと思っていたものが思考による幻想にすぎなかったことも体感できるようになり、これによって本当の自分を取り戻す第1歩にもなることができるのです。

例えて言えば、太陽を覆い隠している雲が幻想の自分で、太陽が本当の自分です。今を生きる代わりに過去や未来という幻想に中にいることはこの雲に一種の栄養をやり続けていることになり、太陽のせっかくの輝きが覆い隠されたままになってしまうのです。太陽の輝きとは喜びです。喜びとは特別の状態なのではなく、本当の自分の本来あるべき自然な状態なのです。

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2024-03-22

偽の謙遜と真の謙遜

19年ぶりに日本に移り住むとすぐに気づき、今でも強い違和感を持ち続けていることは、日本ではおそらく美徳とみなされているはずの日本式謙遜です。

例えば、誰かを褒めると、それが本当に心から出ている言葉であっても、多くの場合相手から最初に返ってくる言葉は「いえいえ」です。否定の言葉を2回繰り返していますが、否定の否定、つまり肯定ではなく、否定の強調です。

でも本当に否定しているのでしょうか。相手が自分を否定したのを受けて、褒めた方がその否定を肯定したとしましょう。そうすると、その相手はむっとするはずです。「いえいえ」という否定の強調を否定してほしいという思いが心の奥に強くあるはずです。

こう考えると、こうした日本式謙遜というのはかなり不健全で倒錯した偽の謙遜であると言えないこともありません。謙遜の反対に当たる傲慢が美徳ではないことは誰にでもすぐに分かるはずですが、本来は美徳であるはずの謙遜が偽りの衣をまとっていた場合、それでも美徳と呼べるのかとなると、大きな疑問です。

それでは真の謙遜とは何なのでしょうか。このヒントになるのが、ユダヤ史上最も謙虚な人物とされているモーセです。聖書の出エジプト記に描かれている彼の言動から浮かび上がる謙遜は日本式謙遜とは全く異なるものです。

それは、もし同じことを他の人たちにやらせたら、自分よりもはるかにうまくやれるはずだということを肝に銘じながらも、自らを否定することなく行動を起こすということです。

それでは、誰かから心から褒められた場合、「いえいえ」という偽の謙遜の反応の代わりにどう反応するのが真の謙遜を反映することになるのでしょうか。一番簡単なのは、「どうもありがとう」と言うことだと思って、モーセを思い出しながら、自分でもそう言うように心がけています。

PS: つながる

2024-03-15

自我の思考という牢獄の門番としての言語

本来であれば単一で不可分であるはずの世界を「分節」し、レッテル貼りをすることが言語の根本的な機能のひとつであると言えるでしょう。これは言語の本質の闇の部分とでも言えるかも知れません。

この「分節」の仕方は言語によって異なりますが、世界が「分節」され、それによってレッテル貼りがなされるという点ではすべて共通です。例えば、本来無数の色が含まれているはずの虹には何色あるのかということは言語・文化によって異なっています。

皮肉にも、ある言語を自在に操れるようになればなるほど、その言語によるレッテル貼りは自動化・無意識化されることになります。これによって、言語を使いこなしているようで、実際には言語に使われているということになります。

レッテル貼りは自分自身、人、物だけに限らず、人生で経験する様々な経験にも当てはまります。例えば、誰かに何かを言われたりされたりした時に、普通であれば、それに自動的に価値判断を下し、無意識に何らかの思考が湧いてきます。例えば、怒りです。人生経験という「物語」へのレッテル貼りと言うこともできるでしょう。

これは他の動物にはおそらくない人間だけの特徴なはずです。人間が言語という道具を獲得した大きな代償とも言えるはずです。人間に長い間飼われて、ある意味で人間化したペットにはあるのかもしれませんが、例えば、否定的な思考をずっと抱き続けた結果、ノイローゼになるとか胃潰瘍になるとかというのは人間だけに起こるのではないでしょうか。

この意味で、言語には自我の思考という牢獄の門番という役割もあると言えるでしょう。かつての私自身も含めて、多くの人はこうした牢獄に囚われているだけでなく、その事実自体にも気づいていません。数年前に自分が思考の牢獄の囚人であることに初めて気づいてから、同僚の言語学者たちを注意深く観察し続けていたところ、思考の牢獄でも同僚だったことが分かりました。;-)

しかしこの牢獄にいることは終身刑ではありません。そこから自らを解放することも可能です。そのための第1歩は自分がそこに囚われているということを自覚することです。

元「囚人」として、自分だけでなく周りを苦しめ続けてきた者としては、こうした思考の牢獄に囚われて、苦しんでいる人たちが自らを解放する手助けになりたいと思って、大学を早期辞職してエルサレムで始めたのがユダヤ式ライフコーチングでした。その後日本に移り住むことになって始めた「ユダヤ流人生の知恵」という私塾も同じ意図を持つものです。

PS: つながる

2024-03-08

人が誰かにあげることができる最高の贈り物(のひとつ)

皆さんはご自身が、誕生日とかといった特別な日だけではなく普段の生活で、誰かにあげることができる最高の贈り物は何だと思われますか。

全く思いも寄らない文脈でこのひとつだと思われるものに気づかされることになりました。24年間住んだエルサレムを2023年9月末に去るまでの大半となる19年間を過ごしたアパートの隣の建物に住む高齢の女性が1人寂しそうに建物の前のベンチに座っているのを見た時でした。

何かと思って、ベンチの隣に座って、どうしたのかと聞いたところ、末期ガンを宣告されたと言って、すすり泣き始めたのです。言葉の無力さを痛感しました。励まそうと思ってどんな言葉をかけても、本人にはおそらく虚しく響くだけだろうと思ったのです。

直感的にしたのは、彼女を優しく抱きしめてあげることでした。すすり泣きと共に伝わってくる体のわずかな震えを受け止めるだけという状態を無言のまましばらく続けていました。

ここで突然悟りました。人が誰かにあげることができる最高の贈り物(のひとつ)とは存在、つまり一緒にいてあげることであると。ここに言葉はいらないだけでなく、場合によっては言葉は邪魔にすらなります。

19年間もずっと隣に住んでいて、たまに通りですれ違った時に簡単な挨拶を交わすだけの仲だったのが、ベンチでの無言のこの数分間で、最も深い所、つまり魂と魂がつながったように感じました。

以来、エルサレムで残された2ヶ月間はこのお隣さんのところに行っては、ただ一緒にいてあげるということを毎週3回続けています。今でも日本から毎週1回電話をかけて話をしていますが、同じ空間を共有するのとは雲泥の差があります。

その後2023年10月からは42年半ぶりに母と同居することになりました。こちらに移り住んで始めた「ユダヤ流人生の知恵」という私塾だけで十分な収入源を確保できる段階にはまだ至っていないので、年金生活の母を経済的にも援助できる段階にもまだ至っていません。

今できるのは一緒にいるということだけです。そして私にとっては最高の贈り物と思えるこれをこれからも毎日届け続けていきます。

PS: つながる

2024-03-01

ユダヤ流肯定主義の実践ための「十戒」

去年の9月末に日本に一旦移り住んで立ち上げることになった私塾の1つである「ユダヤ流人生の知恵」の枠組で、今年の1月から始めた講座のうちその名もズバリ「ユダヤ流人生の知恵」で、最初の科目として取り上げた「ユダヤ流肯定主義」8回の授業が今週で無事に終わりました。

まとめを兼ねてこの肯定主義を実践するために心がけるべきこととして今週行った最終回の授業で紹介した「十戒」を以下に箇条書きで皆さんとも共有します。

0 はじめに

  • ユダヤ流人生の知恵は頭で理解するだけで終わりにするためにあるのではなく、行動に移して実践するためにある。

1 情報源を選ぶ

  • 否定的なことを伝えている情報源ばかりを受動的に消費するのではなく、肯定的なことを伝えている情報源も肯定的に探してチェックする。

2 皮肉をやめる

  • 皮肉は自分・他人・周りの世界が肯定的に変わることに対する信念を弱めてしまうことに問題がある。

3 良い知らせを他人と共有する

  • その日にあった悪いことについて誰かに愚痴をこぼす代わりに、その日にあった良いことについてどんなことでもいいので誰かに話してみるように少しずつ自分を変えていく。

4 自分の頭の中で否定的なことばかり呟くのをやめる

  • そのためには、否定的なことが頭の中に浮かんだら、それに抵抗する代わりに、肯定的なことを思い浮かべるようにしてみる。

5 他人を心から褒める習慣を身につける

  • 他人から褒められて嫌な人はいない。
  • ただし、心から褒める。
  • そして褒められる方も素直に喜び感謝する。

6 今に焦点を当てる

  • 過去の否定的な経験という色眼鏡で今を曇らせる代わりに、今は今で新たに見る。
  • 特に対人関係において大切である。

7 肯定的な人とつながり交流する

  • 日頃どんな人たちとつながり交流しているかは大きな影響を与える。

8 自分の好きなことをする

  • 何かで成功するためには得意なだけでは十分ではなく、それを好きになる必要がある。
  • そのためにも、状況が許す限り、自分の好きなことをするようにする。
  • 人生で本当に喜びと達成感を感じるためには、自分の好きなことが仕事になった時である。

9 自分のことだけを考えるのをやめる

  • 自分にばかり焦点を当てることが否定性と苦しみの根源である。
  • 自分のことばかり考えていても幸せになることはない。

10 他人のためになることを考える

  • 自分の助けを必要としている人は常に現れる。
  • これによって外的状況によって左右されない人生を築くことができるようになる。
  • これによってさらに人生に思いがけない肯定的変化が起こることもある。

PS: つながる

2024-02-16

ユダヤ流本当の自分の取り戻し方

これまでイスラエルででも日本ででも「あなたは誰ですか」という質問にどう答えますかということを多くの人に尋ねてきました。ほとんど全員から返ってきた答というのは本当の自分ではなく幻想の自分についてのものでした。

本来私たちのためになるはずの道具である言語に、実際には私たちは使われてしまっているのです。言語のせいで無意識にレッテル貼りをしてしまうからです。そしてもっとも厄介なレッテル貼りは自分へのものです。自分自身で貼る場合もあるでしょうし、周りから貼られる場合もあるでしょう。

生まれてすぐに名前というレッテルを貼られてからは、人生の年数を重ねれば重ねるほど、自分で貼る、そして他人から貼られるレッテルが増え、しまいには何重にも覆いかぶさるレッテルに覆われて、本当の自分は見えなくなってしまうのが普通です。

こうして貼られたレッテルの集合体を幻想の自分と呼ぶこともできるでしょう。特別な学びや訓練を受けていない多くの人は幻想に自分に支配された人生を送っているだけでなく、この事実にすら普通は気づいていません。

幻想の自分に支配された状態から出てくる思考・発言・行動は自分との関係そして他人との関係で様々な問題を引き起きします。こうした問題だけに焦点を当てて、それだけを変えようとしても、根本的な解決にはなりません。本当の自分を取り戻すのが遠回りなようで、実は一番の近道なのです。

ハシディズムの教えに基づいて本当の自分を取り出す28の方法を教える講座を3月から開講します。今の人生、自分との関係そして他人との関係に問題あるいは疑問を感じている方には特に受講してもらいたいです。2ヶ月間8回の授業の後には、何層にもわたる幻想の自分の下にずっと埋もれたままになっていた本当の自分がふたたび姿を現してくるはずです。

PS: 詳細・お申し込み

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2024-02-09

秋田県由利本荘市の小学校で6年生にした講話

42年半ぶりに住むことになった秋田県由利本荘市にある小学校で、校長先生のご計らいにより、6年生を対象に講話をするという貴重な機会を昨日持ちました。この小学校は、人口減少のため廃校になった私が通った小学校と近隣の2つの小学校を統合して誕生した小学校なので、ある意味では母校と言うこともできます。

1)自分のことを知る、2)自分以外も視野を広げる、3)平和への思いに触れる、4)言語の学び方、という4つの大きなテーマを45分間の講話に組み込んでほしいという依頼をこの6年生の担任の先生から事前に受けました。4つ目のテーマだけは、なぜ言語学の仕事を辞めたかというテーマに変えてて、最初に講話への導入とし、これからの発展として、最初の3つのテーマについて、小学校6年生でも分かってもらえるように寓話を、そして楽しく聞いてもらえるように即興のユーモアをそれぞれ途中に散りばめて、何とかこの難題を乗り切りました。

この講話で伝えたかったメッセージはこの私塾「ユダヤ流人生の知恵」で伝えたいと思っていることとも重なるので、講話の内容を大人向けにまとめて、皆さんにもご紹介することにしました。以下はその文章です。

なぜ言語学の仕事を辞めたか

私の中学時代の夢の1つは多言語を使えるようになることでした。この夢が叶っただけでなく、学んだ言語の1つであるヘブライ語を研究する仕事、つまり言語学者を30年近く続け、そのうち最後の16年間はイスラエルの大学でヘブライ語母語話者の学生にヘブライ語学を教え研究するという仕事をしていました。

言ってみれば、「夢の仕事」とでも言えるようなこの仕事を定年を待たずして自らの意志で辞めたのは、言語学が教える言語の「光」だけでなく、言語学は扱わない(そして扱えない)言語の「闇」を自覚してしまったからです。これは離婚を契機に始まった霊的覚醒の一部です。

言語が果たす最も大切な役割の1つはレッテル貼りです。人であれ物であれ、あるいはその一部であれ、範囲を限定して命名、つまりレッテル貼りをすることで、現実との乖離が起こります。。結果として、言語によるレッテル貼りを通して誰かあるいは何かについて知れば知るほど、その誰かあるいは何かを知ることからは遠のいていってしまうということが起こるのです。

言語を使って、言語自体の制約を説明しようとしているので、言語のこうした「闇」の意図が皆さんにどこまで伝わっているか自信がありません。

自分のことを知る

自分のことを本当に知る上で最大の障害になるのが、自分自身で貼った、あるいは他人によって貼られた言語のレッテルです。その最たるものが名前です。「あなたは誰ですか」という質問に対して、まずは名前を言う人が少なくありませんが、名前は本当の自分ではありません。

本当の自分とは自分自身で貼った、あるいは他人によって貼られた言語のレッテルをすべて剥ぎ取った時に残るものです。それではそれは一体何なのでしょうか。

この問に対する答はある直接体験を通して得ることができるのですが、この直接体験を持ったことがない人に言葉だけで答を言っても、かえって混乱するだけで、ますます分からなくなってしまうでしょう。例えば、愛を経験したことがない人に、愛を経験した人が愛とは何かを言葉だけで伝えようとしても、伝わらないとの同じことです。

自分以外も視野を広げる

他者を知る上でも大きな障害になるのが、やはり言語によるレッテル貼りです。相手の出自・外見・学歴・職業といったものを自分の頭の中で言語化し、その色メガネを通して相手も見てしまうのです。

そしてこうしたレッテル貼りの問題は個人の場合よりも例えば民族や国といった社会集団の場合さらに深刻になります。民族間あるいは国家間の紛争・戦争の究極の原因は社会集団にレッテル貼りをして、その構成員すべてを偏見で見ることにあるというのが、今の私の個人的な考えです。

私がイスラエル国籍だというだけで、レッテル貼りをして、イスラエル軍がやっていることの責任を私にも押し付けるようなコメントをフェイスブックではもう何度か受けました。こうした心ないコメントを残す人たちは、自分たちがやっているレッテル貼りが戦争の根本的な原因であることにはどうも気づいていないようです。

平和への思いに触れる

民族間あるいは国家間の紛争・戦争がなくなった状態を世界平和だと仮に呼ぶことにすれば、その実現のために必要なことは、社会集団レベルでも個人レベルでも、まずはレッテル貼りをやめることでしょう。

こうしたレッテル貼りをやめるのは簡単ではありません。言語の本質がレッテル貼りである以上、言語を無意識に使い続けていれば、自然にレッテル貼りをしてしまうだけでなく、レッテル貼りをしているということ自体に自覚すらないのが普通です。

こう考えると、言語を使っているようで、実際には言語に使われているのです。レッテル貼りは思考の牢獄のようなもので、言語はさしずめその門番です。言語に使われないようになって、レッテル貼りをやめ、思考の牢獄から自分を解放するための方法として、言語学はあまりにも無力です。言語学とは、言ってみれば思考の牢獄内の世界で行われていることだからです。

霊的覚醒を経験し始めるようになった結果、そしてこの過程で出会った霊的教えを通して、まずは思考の牢獄の囚人であったことを自覚し、次には少しずつ解放されていくことができました。これは個人レベルの平和ということもできるでしょう。こうした自分の内的平和に至る方法を日本の皆さんにもどうしても伝えたいと思って立ち上げたのが「ユダヤ流人生の知恵」という私塾です。

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2024-01-26

知識を伝えることと知恵(およびスキル)を伝えることの違い

誰かに何かを伝える際の道具として普通は一番最初に思いつく言語には書き言葉と話し言葉がありますが、どちらがより効果的なのでしょうか。この問に対するユダヤ的な答は場合によりけりです。;-) つまり何を伝えるかによってそれぞれの有効性は異なります。

人生の約30年間を過ごした大学で伝えることを期待され、実際に伝えてきたのは主に知識でした。今から約7年前に霊的覚醒の第1波を経験するようになって、知識よりも知恵に興味を持つようになり、大学を早期辞職し、知識よりも知恵を伝える仕事にこれからの人生を費やすことにした次第です。

それでは、この点に関して知識と知恵にはどんな違いがあるのでしょうか。知識と知恵の比較に言語習得やスポーツ・武術といったスキルを加えることもできるでしょう。以下はこれまでの私自身の経験に先人たちの経験を加味した、知識を伝えることと知恵およびスキルを伝えることの違いの私なりの理解・説明です。

知識の場合、口頭での教えを文字化しても、その教えは基本的にすべて伝わるだけでなく、場合によっては伝わる量も質も増します。これに対して、知恵やスキルを伝えようとする場合、口頭での教えを文字化すると、その教えの一部は(そして知恵の性質によっては多くが)確実に失われてしまいます。

これに加えて、知恵でもスキルでもそもそも言葉だけは伝わらない大切なことがあります。言語外のことは当然ながら言語化することができず(あるいはできたとしても一部しかできず)、したがって文字化にも大きな制限・制約が伴います。

そして直接体験を言語化、ひいては文字化することも困難あるいは不可能です。その直接体験をしたことがある人には言葉で、それも文字で説明しても一部は伝わるかもしれませんが、したことがない人には口頭で説明しても全く伝わらないでしょう。

簡単な例を挙げてみましょう。例えば、一度も愛し愛された経験のない人に愛とは何かを言葉だけで、特に文字だけで伝えられるものでしょうか。いくら頑張っても、一種の精巧な「食品サンプル」になるのが関の山です。厄介なのは、こうした「食品サンプル」が精巧であれば精巧であるほど、「食品」そのものだと勘違いしてしまう危険性があることです。

さらに特に知恵の場合、言語化できる内容でも直接体験でもないとても大切なメッセージがあります。それはその知恵を伝えようとする人の生き様を含む存在感・オーラです。これだけは文字では絶対に伝わりません。同じ口頭でも、オンラインとなると伝わるエネルギーは弱まってしまいますが、それでも、おそらくほとんどあるいはまったく何も伝わらない文字でとは雲泥の差があります。

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2024-01-19

ユダヤ流聖書注解の例 アダムとイブが善悪を知る木から食べてしまう話

聖書を読まれたことがない方でも、創世記の中に出てくるアダムとイブが善悪を知る木から食べてしまう話はおそらくどこかで聞かれたことがあるはずです。

今月から始めた「ユダヤ流聖書注解入門」という毎週1回のオンライン講座では、私がエルサレムでハシディズムを習った恩師たちの恩師に当たるある高名なラビの注解をご紹介しています。そして知識を増やすのではなく、人間の内面性にまで掘り下げた注解から私たちの自我と魂の対立の問題について学び、その学びを普段の生活を変えていくために活かしてもらうことを目指しています。

それではこの師の注解によれば、この話から私たちは何を学べるのでしょうか。それは、この行為によって象徴的に表されている変化の本質とは一体何であり、その前と後で何がどう変わったのか、そして変化の後で生まれた問題を解決するためには何をしたらいいのかということです。

問題の本質は自意識が生まれてしまい、これによって自我に支配されるようになってしまったことです。一般に誤解されているように自我自体が一方的に悪いというわけではありません。ただし自我は矯正する必要があり、しかも自我を矯正するには準備段階が必要になります。

第1段階は食べる前の状態で、他の動物そして生まれたばかりの人間の子供が置かれている段階です。これは自意識の欠如という段階です。ペットや赤ちゃんを観察すれば分かるように、自意識がないということは悪いことだけでなく良いこともあります。それは自分が独立した存在であるという意識がないので周囲と調和しているということと、恥の念といった(特に否定的な)思考の牢獄に囚われていないので自然体でいられるということです。

第2段階は食べた後の状態で、人類の大多数が置かれている段階です。これは自意識という段階です。自意識が生まれたことが決定的になる言語習得の2段階があります。それは親や周囲から呼ばれる名前を自分と結びつけるようになった時と1人称単数代名詞(「私」等)を自分と結びつけるようになった時です。これによって自我による支配が決定的になります。自意識を持たない状態の利点が逆が自意識を持った状態の欠点ということになります。それは自分が独立した存在であるという意識を持つようになるで周囲と不協和音が生じるということと、自我の思考の牢獄に囚われるようになるので本来善であるはずのもの(の一部)が悪に見えてくることです。

自我とは本来幻想にすぎないので、それから発した自意識の維持のためは自我の絶え間ない補強作業が必要になります。その代表的なものは他者からの承認を求め続けることです。フェイスブックで多くの個人ユーザーがその投稿でやっていることの多くがこれです。自意識の犠牲者になるのは、まずは本当の意味での謙虚さで、自己溺愛に墜落する危険性を孕んでいます。次に五感です。このため鈍った五感を刺激するためのものを常に探し求めるということになります。その極端な例が依存症です。

人類の一部は様々な理由・方法から覚醒、つまり自我の死あるいは壊滅的打撃を経験することで第3段階後の状態に至ります。神的意識と呼ばれるものです。これは自我をなくし、言ってみれば意識では「宇宙」の一部になるということです。例えて言えば、幻想に過ぎない独立した波であることをやめ、意識では海の一部になるということです。

それでは自我をどうやってなくすには、あるいは自我が幻想であることに気づくにはどうしたらいいのでしょうか。代表的な方法としては、知性を通することになるハシディズム(および他の非二元論)の学びと内省および瞑想が、心を通すことになる祈りが、そして肉体を通すことになる行動が挙げられます。

自我がなくなった、あるいは自我に支配されなくなったことを確認するために有効は方法は自分に起きていることがすべてが善に見えるかどうかです。見えないとすれば、自我の「雲」が善を覆い隠していることになります。つまり、世界が汚れているように見える場合、世界を見る自分の「メガネ」が汚れているだけだったのです。

ただ、この第3段階の神的意識にはある大きな問題点があります。それは自我がなくなってしまったら、魂が肉体を借りて現世に来ている意味がなくなってしまうということです。つまり、現世での私たちは純粋に霊的な存在だけではないのです。このように考えると、一見すると最終段階のように見えるこの段階は準備段階にすぎないことが分かります。

最終段階となる第4段階は上2つの段階、つまり自意識と神的意識が融合した状態です。これは 矯正自意識という段階です。魂は肉体を直接制御することはできません。直接制御は自我にしかできないのです。自我を否定する代わりに自我を飼い慣らすことで、肉体の支配を巡って魂と争っていた自我を魂の助っ人にするのです。矯正自我意識をどうやって内在化させるかというのはとても大きな問題でここでは書ききれないだけでなく、授業では口頭で簡単には説明したもののの文字化してしまうと誤解される危険性が高く、この誤解自体が危険なので、文字化は避けておきます。

今回その初回分をご紹介したこの「ユダヤ流聖書注解入門」という講座は、約1年間でモーセ五書全体をカバーする予定ですが、いつからでも参加が可能です(それまでの分は文字にまとめた要約をお送りします)。

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2024-01-05

ユダヤ流人生の知恵の応用としてのユダヤ式ライフコーチング

日本に移り住んでから立ち上げた私塾「ユダヤ流人生の知恵」では講座を主にやるつもりでいましたが、せっかく2年間も研修を受けて、その後3年間も実践したユダヤ式ライフコーチングを完全に捨てるのももったいないと思い直し、ユダヤ流人生の知恵の応用として提供することにしました。

イスラエルの大学で教え始める前に一般教養として英語を教えていた時の受講生2人と何と約25年ぶりにある「偶然」から連絡を取り合うことになり、私自身は初めてとなるグループでのコーチングを2023年11月と12月の毎週1回合計8回することになりました。そしてオンラインとはいえ、日本でやるのは今回が初めてとなりました。

このように二重の意味で初めてとなる体験を振り返ってみて、今の思いを一言で要約するとすれば、充実感です。そして私自身エルサレムで今から約6年前にグループで受けて人生が大きく変わったこのユダヤ式ライフコーチングの効果を再確認できたことも今回の大きな収穫でした。

個人・グループを問わず、コーチングをやるのは約2ヶ月ぶりだったので、ひょっとしたら感覚が鈍ってしまっているのではないかと心配もしていましたが、これまでやった中では一番自然にやることができました。これは、日本に移り住んで、42年半ぶりに母と同居し支えるようになってから、これまでにないような魂の平安を感じるようになったことが一番の要因ではないかと勝手に想像しています。

コーチングの基本は個人でやるものですが、今回初めてやることになり、私のコーチング原体験とも言えるグループでのコーチングには個人でのコーチングにはないある大きな利点があることに今回あらためて気づきました。それは相乗効果です。

自我に支配された人生を魂主導の人生の変えていくことを目指すこのコーチングの性質上、自分の思考・発言・行動がどれだけ自我に支配されているかという、これまで誰にも言ったことがないような自分の「恥部」を曝け出し合うわけですから、一体感が生まれないはずがありません。私が受けた時には、同じグループの何人かは一種の戦友にすら思えていました。そしてこの一体感は相乗効果に繋がります。これまでは1つの自我と1つの魂の戦いだったものが、1つの自我と2つの魂の戦いになったからです。

通常のコーチングは金儲けとかといった自我の欲求を叶えることを目的としていますが、このコーチングでは本当の自分を見つけ、それが必要としていることを確認した上で、変化のための「突破計画」を練り上げるというところまでやります。正規8回のセッションが終わった後は、8週間この「突破計画」を1人でやってもらっています。ただし、毎週1回その進行状況を報告する義務があります。

頭だけで学んで理解したつもりになっていないで、学んだことを行動に移し、行動を変えていくということがコーチング全般の最大の力の1つでしょう。

この土台になるのが、コーチから発せられる普通自分1人では思いつかないような問に答えていくことです。この問は私がコーチングを並行して約3年間エルサレムで体系的に学んだユダヤ教ハシディズムの教えに基づいているものです。ユダヤ教ハシディズムと言っても、日本では何のことは想像すらつかないでしょうし、変なレッテル貼りをされる危険性もあるので、「ユダヤ流人生の知恵」という言葉を使っています。

大学でのようにユダヤ教ハシディズムとその教えを直接体験することなく、それについて知識として学ぶだけではなく、このユダヤ式ライフコーチングを通して「ユダヤ流人生の知恵」をもっと多くの日本の皆さんに直接体験してもらいたいという初心を新たにしました。

今回の体験談

福田雄介さん

今回、ユダヤ式ライフコーチング全8回に参加しました。

若い頃は情熱を持ち、がむしゃらに働いて20年。気づくと僅かなお金のために日々何となく仕事して生きているだけの毎日でした。未来に大した希望もないまま漠然と日々が過ぎていました。

あるきっかけで大学時代の恩師でもある先生と再会し、ユダヤ式ライフコーチングを受けることになりました。内容を伝えるのはとても難しいですが、学校や社会に出てから学ぶこととは明らかに一線を画した、本当の意味での知恵に触れる貴重な機会となりました。

コーチとの対話を通じて幻想の自分を取り払い、本来の自分を再発見していきます。コーチからの質問に時に悩み、長い時間考えて自分をあるがままに観察してゆくことで、無意識にしてきた思考、行動の背後にある自我に気づきます。そして本来の自分を体験した時、とても気分が良く感動さえ味わいました。また普段の生活においても負の感情をコントロール出来るようになりました。

長い歴史を持つユダヤの人生の知恵の一部を実体験でき、とても貴重な時間となりました。

C.M.さん(本人の希望によりイニシャルだけにしてあります)

今回、ユダヤ式ライフコーチング全8回を受けました。

コーチングはこれまで受講した経験がなく、何となく難しそうな印象を持っていました。しかし、今回受けたコーチングは、最近自分の身の回りで起こった問題から自身の心を掘り下げて行くスタイルでしたので、取り組みやすかったです。

自分の弱みや課題、そして、強みや理想の状態を理解したことで、職場や家庭で同じような問題に面した時に冷静に対処出来るようになってきました。また、それだけではなく、何となく思い描いていた将来的の夢に向かって、一歩踏み出すことも出来ました。

社会人になって20年超の私が受けても為になったと思いましたが、これから就職活動をする学生さんにも是非お勧めしたいです。自己分析の助けになると感じました。

詳細・お申し込み

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