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人間とは基本的に利己的な生き物であり、弱肉強食・適者生存が人生の原動力であるように見えるかもしれません。つまり、あなたは自分の面倒を見なければ、他の誰もあなたの面倒は見てくれないということです。
こうした人生観からすれば、少なくとも短期的には、他人に与える側に回るより、他人からもらう側に回った方がはるかに自分のためになるように思えるかもしれません。
しかし長期的にも同じことが言えるのでしょうか。愛や気高さといった美徳は弱肉強食・適者生存の世界には居場所がないのでしょうか。
こう考えてしまう人にはある大切な観点が欠落しています。もらい手とは幻想の自分(=自我)であり、与え手とは本当の自分(=魂)であることを思い出してください。もらい手から与え手に変わる時、人は創造者になるのです。
他人に与えることは、その人にもたらす恩恵よりもより大きな恩恵を与える本人に生み出すのです。それは健全な自信と安心感であり、これらを通して自分の潜在能力を最大限に発揮できるようになるのです。
他人に与えることは、その人にもたらす恩恵よりもより大きな恩恵を与える本人に生み出すのです。それは健全な自信と安心感であり、これらを通して自分の潜在能力を最大限に発揮できるようになるのです。
物質世界を重視する限り、恐怖と不安は続きます。あなたは状況の犠牲者であり続け、物質主義の気まぐれな性格に自分を従わせることになるでしょう。
人間の自我的価値観は刹那的で、常に移り変わりますが、霊的価値観は永遠です。霊的価値観とつながれば、人生の些細なことも怖くなくなります。恐怖や不安を、邪魔なもの、不自由なものだとは思わなくなり、有意義な人生を送るために克服しなければならない課題だと思うようになるのです。どんな戦いでも、勝利の半分は敵を理解することであり、恐怖の根源を理解すれば、それを克服するための道筋が見えてきます。
しかしすべての恐怖や不安から解放されるわけではありません。それらは人生の一部なのです。しかしそれらは、あなたの人生で何かが狂っている、つまり何かがあなたの目標達成を妨げている印としてとらえる必要があります。だから恐怖や不安を自覚した時は、落ち込まずに、その状況を改善するようにしましょう。
落ち込みから抜け出すには、自分の考え方に新鮮な視点を導入する必要があります。破壊的な思考を建設的な思考に置き換える必要があります。「良いことを考えれば、きっと良いことがある」という伝統的なハシディズムの教えがありますが、これは愚かな楽観主義ではなく、一見悪い状況に見えるものでも、その中にある良さを認識し、恐怖と戦うことは困難を克服することであると認識することなのです。
恐怖に圧倒されているように思えても、魂があなたに語りかける時間を見つけてください。最初は恐怖のために魂の声が聞こえないかもしれません。しかし忍耐強く根気よく続けてください。恐怖や不安は中途半端な言葉には反応しないからです。
お金や権力や虚栄心は何の価値もない場所に来ているところを想像してください。その場所とは今ここです。あなたが恐怖の目を見つめた瞬間に、それは崩れ始めるのです。あなたの知性であなたの感情を手懐け、あなたの魂であなたの恐怖と不安に打ち勝ちましょう。
恐怖には多くの原因があります。もしかしたら、子どもの頃に信頼関係を壊されたのかもしれません。トラウマが消えないのかもしれません。そして人生の目的と方向性を考えたことがなく、行き当たりばったりで生きていれば、当然、恐怖と不安が根を張ってしまうものです
人間の不安のほとんどは消滅への恐怖から来ています。つまり自分の周りの世界、自分が慣れ親しんできた世界を失うことを恐れているのです。例えば、おもちゃを1つしか持っていない子供は、それを取り上げられると必ず泣いてしまいます。それと同じように、物質世界を唯一の世界として認識している人はそれが自分の知っているすべてであるため、それを失うことを恐れるはずです。
物質主義はその性質上はかないものです。昨日食べた食べ物は今日なくなります。今日稼いだお金は明日には使われます。苦労して手に入れた地位や権力も一瞬にして消えてしまうことがあります。こうした一時的な基盤の上に人生が成り立っているのに、どうして安心できるというのでしょうか。
物質的な世界を優先させることは恐怖と不安の究極の原因です。子供の頃の恐怖を捨て去ったとしても、全く新しい恐怖が生まれます。暗闇を怖がる代わりに、十分なお金を稼げないことに怯えるようになったり、仕事を失うことに怯えるようになったり、十分な成功を収められないことに怯えるようになったりします。
お金・仕事・社会によって人生を決められると、他人から受け入れられないことを強く恐れるようになるのです。その結果、目立つことを恐れ、他人にどう見られているかを恐れ、人から馬鹿にされることを恐れ、自分の選択を尊重してもらえないことを恐れるのです。
こうした恐怖がどれほど空虚なものか少し考えてみてください。人間は本来気まぐれなものです。気分は変わり、態度は変わり、価値観は変わります。ですから、他人に受け入れられるかどうかを心配している時点で、あなたは自分の幸せと安全を、不機嫌な上司や気難しいクライアントなど予測不可能な人たちに委ねていることになります。そうなると、あなたは常に他人を喜ばせるために多大なエネルギーを費やしていることになります。朝と昼と夜とでは別人になろうとすらしているのです。これでは不安で心が休まらないのも無理はありませんね。
他人が自分をどう見るかを恐れて、自分の価値観や基準を妥協してはいけません。これは人生で最も困難な課題のひとつです。誰に受け入れられるのを目指すのがいいのでしょうか。自分の基準を常に変えるような人たちからでも、自分自身が他人から受け入れられるかどうか心配な人たちからでもなく、あなた自身だけから受け入れられる必要があるのです。
私たちは色々なことを恐れています。病気・死・失業・貧困を恐れています。新しい仕事・新しい家・新しい結婚など変化を恐れています。1人でいることを恐れたり、他人を恐れたりすることもあります。そして家族や友人、同僚や隣人、社会全体から受け入れられなくなることへの恐怖もあります。
恐怖と不安は今日の人間の行動の多くを動かす根本的な要因ですが、人々の生活において最も誤解されている力のひとつです。恐怖と不安が深刻になると、私たちを麻痺させられます。そもそも私たちは何をそんなに恐れて不安になるのでしょうか。
未知のものに対する自然で健全な恐怖はしばしば私たちを危険から守ってくれています。この恐怖の原因は正真正銘のものであり、貴重な目的を果たすものです。しかしもっと一般的な恐怖は私たちにその正体を見せないもので、影に潜み、私たちの無知を利用して繁殖します。
恐怖には根拠がないことが多く、根拠があっても、その力を誇張して私たちを人質にしてしまうことがあります。恐怖は疑念と混乱から生まれるのです。
疑念と混乱が解消されると、心の重荷が降りたような気がします。自分の判断に間違いがあったかもしれないと思ったとしても、少なくとも目の前にあるものがはっきりと見え、前に進む力と自信を得ることができるのです。明確な目標がない人は、混乱したままです。そして、混乱はさらなる混乱を生みます。いったん恐怖と不安の網に絡め取られると、さらに疑念と混乱に巻き込まれるだけです。
恐怖と不安は疑念と混乱という暗闇の中で育ちますが、明晰さという光を当てられれば消えていきます。自分の人生の目的を認識し、すべてのエネルギーをそこに向けることによって、人生に明晰さを導き入れるする必要があるのです。
苦痛から自分1人で抜け出すのは並大抵ではありません。というのも、苦痛によって行動や視界が制限され、ほとんど無力に近い状態になってしまうからです。そのため、より広い視野を持つことができる家族や友人に相談することが大切です。
苦痛から解放されるには、まず動くことから始めます。苦痛の状況から遠ざかり、気をそらすことで、そうした辛い症状を生み出した原因から遠ざかり、癒しを得ることができるのです。この動きは、新しい友人を見つける、新しい本を読む、プロジェクトに参加する、授業を受けるなど、孤独で近視眼的な自分自身と世界に対する見方を変えるのに役立つものであれば、何でもかまいません。
苦痛から抜け出すには、強い後押しが必要な人もいます。どん底に落ちるまで待つ必要はないのです。そこで重要な役割を果たすのが、本当の友人たちです。自分にとって大切な人が苦痛を経験している時には、その人が何を必要としているかにかかわらず、その人のそばにいてあげなければいけません。その人がこれ以上視野を狭めるのではなく、視野を広げる必要があるということを知らせてあげなければいけないのです。その人が自分自身を助けるのを助けてあげてください。
苦痛を和らげるもう1つの要素は、逆説的ですが、苦痛を喜んで受け入れることです。そして苦痛は自分の霊的成長の機会であることも忘れてはいけません。自分の行いを見直し、忙しい日常を一旦中断して、その苦痛の原因を調べる機会なのです。
苦痛は、霊的成長を犠牲にして、物質的な快適さにどれだけ溺れているかを確認する試験だとも考えてみてください。人生の本当の目的を認識し、確固たる意志でそれを追求する時、障害は挑戦に変わり、それに妨害される代わりに力と決意が引き出されるのです。
このような信頼を諦めと混同してはいけません。正しい行いをするための努力を増し、他の人が同じ用にするのを励まし、機会あるごとに同胞の苦痛を軽減するための原動力に苦痛を変えてくのです。そして苦痛には深い目的があることを理解し、その正体を明らかにもするのです。
苦痛は人生の見方を変える機会です。人生が順調に進んでいる時は、すべてを当然のこととして受け止めてしまいますが、苦痛を体験すると、人生を新たな視点から見直すことができるようになるからです。
だから私たちが本当に問うべきことは、なぜ苦痛を経験することがあるのかということではなく、そこから何を学べるのかということなのです。
苦痛は何かがおかしくなっているということを示す印であることがよくあります。その原因を見つけるには、人生を別の角度から見つめなければなりません。物質主義的な生活を送っている人は、苦痛を誤認することがよくあります。苦痛を感じると、その苦痛のことばかりに気を取られ、他のことは何も感じられなくなるのです。
しかし私たちは単なる肉体ではなく、肉体を借りた魂であるということを理解すれば、人生にははるかに崇高な目的があることも理解するようになるのです。そうすれば、苦痛にもはるかに深い意味があることにも自ずと気付くことになります。
私たちの人生の目的は、物質的な快適さを得て、束の間の幸福を追求することにあると一見思えるかもしれません。しかしこうした目的は浅はかで無意味であることに気付くようにもなります。人生の本当の目的はこの物質的な世界を霊的に高め、自分自身に挑戦することです。人生とは挑戦であり、挑戦とは善と悪という両方の可能性を突きつけられた時に善を選択をすることです。一時的に墜落するという可能性がなければ、人生に独立性はなく、したがって意味もないということになります。
苦痛には本当の意味での説明はありません。私たちが苦痛を理解する唯一の方法は、世界そのものが本質的に善であり、苦痛は何らかの形でより大きな善の一部であると理解することなのです。これは、苦痛そのものが良いということでも、苦痛を心穏やかに受け入れるべきだということでもありません。
苦痛は生命の神秘の一部であり、人間の目には最初は見えないが、時間が経つにつれて明らかになる大きな絵であるということも理解しなければいけません。苦痛がいかに不幸中の幸いであるかを見出し、苦痛を克服することで肉体と魂の調和を取り戻すことが私たちの義務なのです。
私たちは、仮に世界のすべてが善であるというハシディズムの信念に従うとしても、苦痛を当然の状態として受け入れることはなく、普通はそれから解放されるためには手段を選ばないものです。そして苦痛は私たちの折角の信念も砕き、はっきりと考えることができなくなり(つまり苦難を生み出してしまい)、解放のためにどのような助けを求めたらいいのかも判断できなくしてしまいます。本当に有意義な人生を送るためには、苦痛(と苦難)にどう対処すべきかを考えておく必要があります。
世界のすべてが善であるというハシディズムの信念を貫き通すことができれば、たとえ苦痛が収まらなくても、それを人生の挑戦の一部として受け入れることができます。そして理想としては、この経験は霊的に成長する貴重な機会にもなります。
しかしこれは私たちにとって大きな課題でもあります。つまり、苦痛によって衰弱してしまうのか、それとも自分の信念をより深く掘り下げるための触媒としてとらえるのか、という2つの選択肢があるのです。もし苦痛を後者のように捉えることができれば、その経験を通して今まで以上に強く生まれ変わることができることにもなります。
私たちが苦痛の意味を本当に理解できるのは、普通はその経験の前か後だけです。苦痛(と苦難)の最中には、ほとんど何も言えません。だから、「豊作の年」の間に「飢饉の年」に備えておくことが望ましいのです。苦痛(と苦難)を経験することなく人生が進んでいる間に人生を本当に理解しておけば、苦痛が襲ってきた時にうまく対処することができる可能性が高まります。強い根を持つ木は厳しい嵐に耐えることができますが、嵐を目前にして初めて突然根を伸ばすそうとしても、不可能だからです。
他のスピリチュアリティーの教えと同じように、ユダヤの教えでも苦痛(pain)と苦難(suffering)は区別されています。前者は病気や事故などによってもたらされ、避けることができない痛みを指すのに対して、後者はこの痛みについて考えてしまうことでもたらされ、避けることができる苦しみを指します。
禅の有名な例え話に「2本の矢」というものがあります。1本目の矢は誰かに射られて自分の体に刺さってしまったものです。この際に感じるものが苦痛であり、避けることができません。これに対して、この苦痛について考えてしまうことが架空の2本目の矢となって思考に刺さり、これによって苦痛をかんがえてしまうことでもたらされるのが苦痛です。この2本目の矢もそれに伴う苦難も、訓練次第でなくすことができます。
この訓練の有名なもののひとつとして、マインドフルネスストレス低減法が挙げられます。ハシディズムの説話には、手術中に麻酔をかけられるを拒み、意思の力で苦難どころか苦痛すら感じないようにしたという賢者が出てくるものがあります。
大切な人の魂の昇華を祝い、それに対する自らの悲しみを表現する以外に、喪に服す目的がもうひとつあります。愛する人の死は自分自身の人生を見直し、人生の使命をどのように果たしているかを評価する機会でもあるのです。
ですから、愛する人の魂を偲ぶことは、自分自身の魂を見つめる最も適切な機会でもあるのです。自分の行動を評価することがいかに難しいか、私たちは皆知っています。友人や家族が亡くなるまで、そうする必要に迫られないのが普通です。その時になって初めて、私たちはその人が生前に成し遂げたこと、家族や友人にどう接したか、見知らぬ人をわざわざ助けたことなどを思い出します。しかし残念ながら、愛する人の死を体験するまでは、私たち自身の優先順位を普通は考え直すことがありません。
人間は1人1人が完結した世界であり、亡くなった大切な人の代わりを誰かが務めることはできません。しかしその空白を部分的に埋める助けになる方法はあります。家族や友人を偲んで徳の高い行いをすることは、その人の魂を継続させることになり、その人の生きた記念碑を建てることになるのです。
命の外側の部分、つまり人間の体に囲まれている部分だけを見ていると、死は確かに生の終わりのように思われます。しかし、私たちはこの外側の層の内側を覗いて、人間の魂つまり永遠とのつながりを見ることも学ばなければいけないのです。
つまり私たちの人生においては死にも目的があり、死はより有意義な人生を送るための道具となってくれるのです。しかし結局のところ、死とは遺族にとっては理解不能なものであり、破壊的な経験であることに変わりはありません。ありとあらゆる理性的な説明を聞いても、心はまだ泣いています。そして泣くべきなのです。友人や親族が愛する人のために悲しんでいる時、説明しようとせずに、ただ一緒にいてあげてください。そして慰め、一緒に泣いてあげてください。私たちがどんなにあがいても、生の神秘には私たちには理解できないことが多いからです。
死は魂がより高い次元に昇華することを意味するとしても、遺族にとっては辛い経験であることに変わりはありません。しかし死は人生におけるすべての経験と同じように、否定的なものとしてではなく、成長のための機会としてとらえなければいけないのです。
死は強い感情を引き起こすため、それを表現するための決まった方法があって、しかも建設的な方法で癒す必要があります。愛する人が亡くなると、失った悲しみと将来への不安という相反する強い感情が沸き起こるものです。喪に服さないのは野蛮であるものの、だからといって必要以上に長く喪に服していてもいけないという賢者の教えがあります。そうでなければ、人の死はそれ自体として存在し、絶えず私たちを悲しませ、人生の歩みを妨げることになるからです。
しかしなぜ愛する人の死に対する自然な痛みや悲しみを抑えなければならないのでしょうか。悲しみは結局のところ感情であり、感情はコントロールできないのではないでしょうか。悲しみを制限して抑圧したり、ある方向に向かわせようとするのは間違っているのではないでしょうか。
確かに、感情は感情ですが、それを破壊的な方法で経験するか、生産的な方法で経験するかは、私たちが選択できるのです。この場合重要なのは、死をありのままに理解し、その肯定的な要素を称えることです。愛する人の魂がこの世にいた時よりもさらに高い場所に到達し、これからも上昇し続けるということを遺族は理解しなければいけません。この肯定的な認識と悲しみを調和させる行為とが、死をトラウマ的体験からに霊的浄化の体験へと変えてくれるのです。
悲しみの表現を減らすことは不健全で不適切ですが、悲しみに圧倒されてしまうことは、死の本当の意味、すなわちその人の魂がさらにふさわしい棲家を見つけたという事実を遺族が自分勝手に見過ごしてしまうことでもあります。
死という言葉は私たちの心に恐怖を与えます。死は理解できないものであると同時に、避けられないものだと思われているからです。死について語ることも、死という言葉を超えてその意味を考えることも、ほとんどできないでいいます。多くの人が生を身体が活動している状態としか考えていないので、この反応は理解できます。しかし私たちは、死とは何なのか、遺族はどのように対応すべきなのか、と自分に問いかけてみなければいけません。
死の謎は魂や人生そのものの謎の一部であり、死を理解することは人生を理解することにほかならないのです。生きている間、身体は魂によって生かされています。しかし魂は肉体の死後はその制約を受けず、これまで通り生き続けるのです。そして人間の本質は魂にあり、地上での責任を果たした後はより高い状態へと昇華していくだけなのです。
ですから、死とは何かという問に答える前に、私たちはまず生とは何かと問わなければいけません。医学的な定義では、生は脳と心臓が機能している状態のことです。しかし人間は生物学的に生きていても、全く生きていないことがあります。呼吸をしたり、歩いたり、話したりすることは、私たちが生と呼ぶものの現れでしかないのです。生の真の源であって、肉体を機能させるエネルギーは魂なのです。そして魂は不滅で、肉体の死によって生の現れが停止しても、魂は形を変えて生き続けるのです。
物質的な利益のみを目的とする人にとって、死はまさに「終わり」です。それはすべてのはかない成果が停止する時です。しかし生はまずは霊的なものであると考えている人にとって、生は決して終わることはないのです。魂はその人が地上で行った善行の無尽蔵のエネルギーを燃料とし、そしてその霊的活力を永続させてくれる子供たちや他の人々を通しても生き続けるのです。
私たちは肉体的生を霊的生つまり真の生と混同しがちです。肉体的生に伴う物質的な装飾に気を取られてしまいます。しかし肉体を離れた魂は、まだこの世に残っている人々が霊的に生きるようにと鼓舞し続けることができるのです。だから徳を積んだ人は肉体的にこの世を去てからの方が深い影響を及ぼすのです。
日本(語)でもよく耳にする自己実現という言葉は、幻想の自分つまり自我の願望を叶えるという意味で使われていることが少なくありません。この意味での自己実現の典型的な例はいわゆる「成功」になるでしょう。
しかし本当の自分つまり魂の観点からすると、人生の本当の目的である霊的成長に寄与してくれることを叶えることが真の自己実現ということになります。
この講座では、この後者の意味での自己実現を叶えるためのユダヤ流の3条件を理論と実践の両面からご紹介します。まず第1条件として、本当の自分を確認しておく必要があります。この土台が整っていなければ、続きがどんなものであれ、砂上の楼閣になってしまうからです。
これに基づいて、第2条件として、自己実現に必要なものをどういう意識を持って引き寄せるのかを、第3条件として、引き寄せるためにどういう意識を持って行動を起こしていくのかをそれぞれご紹介します。
ここでご紹介する教えは深淵でありながら、まったく違和感なく頭と心に響くはずです。なぜなら、魂がすでに知っていたことだからです。それが成長の過程で、社会の「常識」の名のもとに、本当の自分が幻想の自分に乗っ取られ、自己実現の意味も本来あるべきものとはまったく別物になってしまっているのが普通なのです。
毎日仕事に行くのを止めたからといって、人生の使命を果たすために肉体と魂を使わなくなるわけではありません。かつて、仕事の競争相手のことを考えたり、仕事の計画を立てたりするのに費やしたエネルギーは、当時はできなかったようなこと、例えば、周りの人たちに喜びの光を照らすことに充てることもできるのです。
社会が高齢であることを再評価する前に、高齢者は自分の人生を自分の手で切り開かなければいけません。高齢者も自分の信念を貫くことを学ばなければならず、自分の年齢やそれが自分の肉体に与える影響に負けてはいけないのです。体力が落ちたから使い物にならないなどと言う人に耳を貸してはいけません。散歩やゴルフをするくらいなら、何もしないで過ごす方がましだなどと言う人に耳を貸してはいけません。
さらには、高齢者は自分に対する認識も変えなければいけません。自分は社会にとって無用どころか、これまで以上に大切な資産なのだという認識の変化です。
私たちが常に若さを称賛し、それが望ましいものすべての象徴にどうやってなったのかを考えてみてください。このことは、高齢者、ひいては社会一般に対して明らかに士気を低下させる効果があります。もし私たちが、知識や知恵よりも、あるいは経験豊かな魂の霊的活力よりも、若者の肉体的活力を評価するというのならば、これは私たちの価値基準について何を物語っているのでしょうか。
聖書には、老いは美徳であり、祝福であると書かれています。学問や信心深さに関係なく、すべての老人を尊敬しなさいということです。なぜなら、どんなに優秀な若者にもまだ持ち得ない知恵と経験を人生の1年1年がもたらしてくれるからです。
しかし、多くの社会では高齢者は負担とみなされるようになっています。若者ならば、年長者から学ぶ代わりに、自らの失敗から学ぶことにこだわり、ビジネスから行政まであらゆる分野で若さが最高の信頼条件とされています。
確かに、物質優先の人生であれば、肉体の衰えは精神の衰え、つまり退屈・無益・絶望への転落を意味するのかもしれません。しかし肉体を魂の付属物と考えると、逆に、老化に伴う霊的成長が肉体を活性化させると考えることができます。そしてこう考えれば、物質的な利益の追求が頂点に達する中年期には、人生の優先順位を変えていくこともできるのです。
引退という考え方は、人生は生産的な期間と非生産的な期間で構成されているという考え方に根ざしています。しかし、生を授けられ続けているということは、その人がまだ人生の使命を終えていないということであり、この世で成し遂げなければならないことがまだ残っているということなのです。
「あなたは長年よく働いてきましたね。体力も衰えてきたことですし、そろそろゆっくりしてはどうでしょうか。そろそろ人生の収穫を得る時が来たのではないでしょうか。」
もちろんこれに対する社会的な答は引退です。しかしあなたは引退が私たちの精神に及ぼす影響について考えたことがあるでしょうか。なぜ多くの高齢者が不幸になるのでしょうか。なぜ彼らは人生に虚しさを感じるのでしょうか。運が良ければ、私たちは皆高齢になります。その時やって来るのを熱狂をもって待つべきなのでしょうか、それとも恐怖をもって待つべきなのでしょうか。
人生の晩年について考える前には、人生そのものについて根本的な問を自分に投げかけなければいけません。なぜ自分はここにいるのだろうという問です。この問にどう答えるかによって、老化や引退に対する考え方が変わってくるからです。
もし人生を物質的な利益や生産性のみで計ろうとするならば、老化による肉体の衰えは必然的に負担と見なされるでしょう。しかし人間はその真の豊かさが知的・感情的・霊的収穫で測られる霊的存在であることを理解すれば、魂が人生における主な力であるという認識に至ることになります。そして魂は肉体とは異なり、決して老いることはなく、ただ成長するだけなのです。
人間は物質世界を霊的にするために造られたものであるため、真の幸福に到達する唯一の方法は霊的成長と達成を通じてなのです。そしてこれは、人に与え、愛し、分かち合い、すべての行動に深い意味を見い出すことを意味します。
時間を超越した魂の存在を認識することは、老化のプロセスを理解する鍵であり、人生の黄昏時にチャンスの扉を開くための鍵です。人間の生産性は人間の創造性の直接的な結果であり、人間の創造性は魂の霊的エネルギーの直接的な結果なのです。
そもそも私たちは何から引退するのでしょうか。野心から。創造性から。自分の魂から。このような引退という態度は、単に死ぬ準備をしているということであり、生産するという使命をもってこの世に生を受けた人間には受け入れがたいことです。こう考えると、私たち人間には人生からの引退はないのです。
引退を勧める考えは間違いです。これは、それなりの量の富を蓄積した後では、ある年齢で生産になることを止め、物質的な成功と自由な時間を楽しむことが人生の目標だとする考えだからです。仕事の成果を享受するなということではなく、仕事をしてきたそもそもの理由を忘れてはいけないということです。また逆に、生活の糧を得るために人生のすべてを捧げるのもよくありません。私たちは、仕事と生産性の世界を放棄して、活動・挑戦のない世界に向かって行ってはいけないのです。
私たちは生活に必要な物をお金でしか買うことができない物質的な世界に生きているので、困っている人をお金で助けることは大切です。しかし慈善行為はお金だけではないことも忘れてはなりません。自分の時間・助言・共感を提供することもできます。例えば、孤独な人を食事に招待することもできますし、若者が抱えている問題に対処するための助言をすることもできます。このような精神的な慈善行為は、困っている人を支え、蘇生させるために不可欠です。
たとえその人が利己的な動機で、あるいは嫌々ながら慈善行為をしたとしても、困っている人を支えるという目的は達成されるのです。もちろんこれは最適な慈善行為ではありません。そして特に、困っている人に恥をかかせたりすることになるかもしれない寄付の場合は、可能な限り匿名で行うのがよいでしょう。
そして最高の慈善行為とは私たちが慈善行為と思わないようなもので、その人がもう他人に頼る必要がないように機会を与えることです。
純粋なビジネスの観点からすれば、慈善行為は単に自分の財源を減らすだけだと言う人もいるかもしれません。しかし実際には慈善行為は最も賢明な投資となるのです。もし、ある人がビジネスで資金難に陥っているのなら、逆に寄付の額を増やしてみるべきです。
経済的な面だけでなく、慈善活動は心と体を何倍にも豊かにしてくれます。たとえ自分には余裕がないと思っていても、慈善活動のためにわずかでも時間を割けば、何倍もの報酬が得られることに気づくことでしょう。自分のことばかり考えている場合よりも、はるかに多くのことが達成できるはずです。
数ある慈善行為の中で、最も強力なのはお金を通してのものです。なぜそうなのでしょうか。なぜならほとんどの人が自分の価値を計るのに、お金を使うからです。私たちはお金を稼ぐために多くの時間・エネルギー・労働力を費やしているため、お金は生命のエネルギーそのものを表しているのです。ですから、お金を寄付することは、もともと自己中心的なこの物理的世界を洗練されたものにするための最も深い表現形態なのです。
自分の成功は自分だけで成し遂げたものであり、自分の知性と能力がもたらしたものだと感じている人もいるかもしれません。これは富が私たちにもたらす、自分の自我に惑わされないための挑戦なのです。お金は利己的な自我の究極の象徴、つまり偶像になってしまう危険性を秘めているからです。
これはあなたの成功があなたの努力の結果でないと言っているのではありません。ただ座ってお金がやってくるのを待つのではなく、成功のためにあらゆる努力をしなければならないのは言うまでもありません。しかし富を生み出すのは自分の努力だけではないことも認識しなければいけません。
私利私欲に没頭することを許さない力が慈善行為にはあります。慈善行為としてお金を恵むことは、私たちの能力・努力・野心・慈悲など、私たちのすべてを捧げることを意味し、物質を精神化する最も強力な方法なのです。
なぜ私たちは慈善行為をしなければいけないのでしょうか。確かに慈善行為は健全な人間社会の証です。しかしなぜ慈善行為をするのか、なぜ他人と分かち合う必要を感じるのかを理解しておくことも大切です。慈善行為、つまり本来私たちのものであるものを手放すということは人間の本質に反するものではないのでしょうか。
慈善行為の鍵は、それが受け取る側への贈り物であるだけでなく、与える側への贈り物であることを理解することにあります。私たちが食べ物・保護・愛情を必要とするのと同じように、私たちは与えられたものを分かち合う必要があるのです。慈善行為は物質世界を洗練されたものにするための最も単純でありながら最も深い方法のひとつなのです。
慈善行為によって、私たちは物質を精神化し、高潔な意図を実現することができます。すべての人が裕福であったり貧しかったりということがないおかげで、私たちも慈善行為を通して与えることができるのです。私たちが寄付するお金は、本当のところは私たちのものではありません。私たちが寄付することできるように、言ってみれば貸してもらっているのです。より多くのお金に恵まれた人は、より多くのものを与える機会と特権を与えられた人なのです。
ですから、慈善行為は謙虚に行わなければなりません。もし裕福な人が自分は他人に大きな恩恵を与えているのだと考えて傲慢に与えるなら、それは大きな間違いです。好意は自分に対して行われているのです。このことを認識しておくことで、慈善行為はより一層説得力のあるものになるのです。
皆さんは今普段の生活で何に動じるられますか。こ(れら)のことだけでなく、何事にも動じないようになっている自分を想像できますか。何事にも動じないようになれば、人生はどう変わると思われますか。それでは、何事にも動じないようにするにはどうしたらいいか、すでに実践されていること、あるいは実践的できるのではないかと今思いつかれることはありますか。
この講座では、何事にも動じないようにするための究極の方法とでも言えるユダヤ流の教えを日本の皆さんに紹介するものです。私自身、この教えを実践という形で直接体験することで確認済みです。
私たちが人生で経験することはすべては究極的には善であるという言われると皆さんはどう思われるでしょうか。そんな馬鹿なと思われるかもしれません。しかしすべて人生の本当の目的である霊的成長につながるという意味では、すべては究極的には善なのです。このことが見えないのは、世界を見る自分の「眼鏡」が自我の思考という「汚れ」で曇っているだけなのです。これがこの教えの根幹です。
この信念が単なる頭だけの理解に留まらず、確信となって普段の生活と自分自身をも明るく照らしてくれるような実践的方法もご紹介します。できるだけ多くの方にぜひ知ってもらいたいと強く願っている教えと実践です。そしてこれが単なる頭だけの知識で終わらないように、毎回の学びを普段の生活でも応用してもらえれば、さらに嬉しく思います。
人生で肝心なことは、人間が独立した創造者になることなので、どんな障害も自分の最大限の努力を引き出すための挑戦に過ぎないと考えればいいのです。そして人生そのものが最大の挑戦です。というのも、私たち1人1人は、この残酷な世界の中で、自分がどんな運命をたどるのか知る由もない脆弱な人間だからです。
しかし人生の挑戦は魂の最も深い次元を引き出すものです。あらゆる成長の前には挫折や痛みが付きものです。
それでは、仕事の障害を成長のための挑戦に変えるための自分の中の力を手にするにはどうしたらいいのでしょうか。それは、仕事が自分の神聖な使命を果たすための手段であると考えることです。
私たちは新しい仕事を始める時に、特にイライラを感じるものです。しかしこのイライラをバネにすることで、新しい仕事はより強い決意を持って力強く始めることもできるのです。
確かに人間は仕事をするように造られているとしても、この仕事はどういう目的のためなのでしょうか。
仕事というものは、それ自体が目的であっては満足感や充実感を得ることはできません。多くの人が気づいているように、いくら大きな「成功」を収めても、空しさを感じることがあります。自分自身の感情や魂の必要性を叶えなければ、いくら物質的な成功を収めても満足することはできません。私たちは自分の仕事がより高い目的へと導いてくれるものであり、世界に肯定的な痕跡を残していることを知る必要があります。
私たちが仕事をする根本的な目的は、自分の才能や能力を活かして物質世界を改善し、より神的な場所にすることです。このためには、霊性が私たちの生活の主要な力であり、物質的・物理的なものは魂の表現のための手段であることを認識する必要があります。自分の仕事を成功させるためには、肉体的・知的能力を最大限に活用し、可能な限りのことをしなければなりませんが、あくまで仕事はこのための道具のようなものであって、この究極の目的につながるものであることが望ましいということをわきまえておく必要もあります。
私たちの多くは、仕事が必要であることを認識しそれに共感しながらも、仕事の量に常に頭を悩ませているのではないでしょうか。これは運命なのでしょうか、それともバランスをとることができるのでしょうか。そしてもっと重要なのは、生産的でありたいと私たちが感じる必要性の中に深い意味を見出すことができるのかということです。
仕事をし、達成しようとする意欲は人間の生活に不可欠なものです。生産的でなければ、人は満足することができません。人間の本性は無償で何かを受け取ることを嫌います。
私たちはこの物質世界をより洗練された場所に変え、より高い次元をそこに導き入れるために造られたのです。ですから、私たちの仕事の究極の目的は霊的成長ではあるものの、私たちが物質世界に置かれたということは、肉体労働を通じて霊的成長を遂げるということなのです。
人間の満足感は仕事と結びついています。単純に考えると、もし何の努力もせずに必要なものがすべて手に入るなら、私たちはもっと感謝し、恩義を感じるのではないでしょうか。
しかし実際には、人間は仕事を通じて、与える者、人生に貢献する者になる必要があります。人間は自らの努力によって最も深い喜びを得られるように造られているのです。この能力こそが私たちの授かった最大の贈り物と言うことができます。つまり仕事とは単に物質的快楽を得るためのお金を稼ぐためにするものではなく、人間生活の自然な表現なのです。
最初は、体と魂は敵対し、それぞれが優位に立とうと争っています。しかしやがてはお互いを認め合うようになります。魂は自己を表現するために健全な体を必要とします。体は魂の権威を認める必要があります。この認識こそが健康への鍵であり、強い魂は体の利己的な要求を減らしてくれるのです。体はその必要性を否定されるべきであるということではなく、魂が表現するための適切な手段として機能するよう、鍛え磨かれるべきであるということです。
このようにして自分を磨くためには、魂の指示がなければ、体は自分勝手になってしまい、破壊的な結末に至ることがよくあるということをまずは認識することです。魂は私たちが純粋な肉体的エネルギーを克服・抑止することを可能にし、体の粗野な表現を魂のためのエネルギーに変換してくれるのです。魂が強化されれば、体が健康になるために必要なエネルギーがすべて供給されるようになります。
健康とは肉体が正常に機能すること以上のものです。それは健全な肉体に健全な魂が宿っているということです。
ですから、健康とは体と同じように魂も大切にすることなのです。そうでなければ、人間を半分しか扱わないのと同じことになり、その人の肉体的必要性と霊的必要性との間に亀裂が生じることになります。
体がある特定の食物によって養われるように、魂は霊的な栄養を必要とします。その栄養とは自分の人生の使命を自覚し、その使命を果たすための能力を与えてくれた者を意識することです。健康な魂は学問や祈り、そして高潔な行為を通してこの根源とつながり、道徳的・精神的な義務を果たすことで、魂は神的エネルギーで満たされます。
体力のすべての側面が霊的な要素を持っていることを理解することが重要です。食事をする時、食べ物は単なる嗜好品ではなく、有意義な人生を送るために必要な活力を生み出すものであるということを認識する必要があります。その日1日にしたことを謙虚に振り返って眠りにつけば、魂はその活力をまた漲らせてくれる栄養を睡眠中に補給することができるのです。
長年体を使って生きていると、その体がつい当たり前のように思ってしまうものです。体は自分のものなので、自分でどうでも好きなように扱ってもいいと思われるかもしれません。実際、体を大切にする人とそうでない人がいます。
しかし本当のところは、体は自分の物ではありません。魂を運ぶための乗り物として世話を委託されてたものです。他人を傷つけてはいけないように、自分の体を傷つけてはいけないのです。よく食べ、よく休み、体調を整え、あらゆる面で自分の体を尊重することは義務なのです。体力作りは任意ではなく、責任の一部なのです。
上のことを強く体感するにつれて、借り物である体を大切に扱おうという思いも強まりました。具体的には、何をいつ、どう食べる(そして食べない)かに長年気をつけ、平日の朝は自重筋力トレーニングとランニングを、平日の夜はヨガ(のアサナ)をそれぞれ筋力と持久力と柔軟性の維持のためにずっと続けています。
まずは、短期的な解決と長期的な解決の両方があることを視野に入れなけれておく必要があります。なぜなら、目先の問題は、より深い問題の兆候であることが多いからです。特に、深刻な問題が生じた時は、夫婦間の力関係を調べる必要があります。妻と夫は健全なコミュニケーション方法を身につけなければなりません。そうすれば、子供たちにも良い手本となります。また父親と母親が問題解決のための強力なチームを形成している必要もあります。
子供の非行がしばしば親の態度に起因していることを忘れてはなりません。このような態度を改めない限り、子供の大きな変化は望めません。親自分のエゴを越えて子供に接しなければなりません。そうして初めて、目の前にある問題を本当に評価し、行動計画を決定することができるのです。親は子供との戦いに巻き込まれることを避けなければなりません。親子関係において、コミュニケーションを取る責任は常に経験や知識の豊富な親にあるのです。
客観的に問題を判断できる人、霊的に敏感で、家族の目標や価値観を理解している人など、家族以外の人の助けを求めることが賢明な場合もあります。
そして何よりも愛が問題と闘うための最も強力な手段です。確かに、健全な家庭は規律を持って運営されなければなりませんが、その規律にも愛がなければなりません。子供は素直な感情に非常に敏感ですから、愛は作り物であっても表面的な物であってもいけません。逆に、親の純粋な愛を受けると、純粋な喜びで反応し、それに応えてくれるのです。箴言27章19節にあるように、「水が顔を映すように、心は人を映す」のです。
健全な家庭を築くには3つの重要な要素があります。
家族内の関係の基調は、両親がどのようにお互いを愛し、尊敬し、どのように日常生活を送り、どのようにコミュニケーションを取るかによって決定されます。妻と夫は自分たちの関係を最優先させなければなりません。夫婦の関係を最優先し、有意義な話をし、一緒に楽しむ時間を持たなければなりません。
とは言うものの、一緒に過ごしたいという気持ちだけでは十分ではありません。親が子供を心から愛していても、コミュニケーションがうまくいかないことがあります。休暇をどこで過ごすか、どのサイズのテレビを買うかといったことが家族の最も重要な話題になっている場合、家族は自然に離れていくものなのです。これは物質主義社会と人間の利己心の産物です。家族の誰もが自分のことだけを考えていれば、その家族は損なわれてしまいます。
しかし家族が理念や価値観を共有すれば、共に成長することができます。家庭は家族が目的意識を共有するための基盤となり、同時に家族1人1人が自分の目標を追求するための踏み台にもなるのです。
家は家族にとっても訪れる人にとっても温かみのあるものでなければなりません。そのためにはもちろん健全な家族の絆が重要ですが、物理的な環境も重要です。
美しい家は、その健全さと精神的な優美さを損なうような影響から解放されていなければなりません。例えば、テレビが家庭を支配することを許してはなりません。受け入れるのが非常に難しい人もいるかもしれませんが、肯定的な番組だけを見ようとするのではなく、テレビを全く持たないのが最善でしょう。
もちろん、家庭における究極の美しさとはその感情的・精神的な温かさです。家を精神的に美しくしておくには様々な方法があります。例えば、家族皆で一緒に自分たちの責任について話すとかしてしてみましょう。お客を家に招待したり、学びの場としたり、慈善行為や地域の会合に利用したりもいいでしょう。
これには、毎日のスケジュールや家事、掃除や買い物など、家を維持するためのあらゆる「些細なこと」が含まれます。健全な家庭は円滑に運営されなければならず、家族1人1人違う興味に駆られてはいけません。なぜなら健全な家庭とは一体感を求めるものであり、すべての人がその責任を分かち合わなければならないからです。家庭全員がその成功のための平等なパートナーなのです。
人は家に帰れば、誰しも同じような温もりと安心感を感じるはずです。家庭や家族はあなたの巣であり、人生の中心であり、日常のあらゆる体験がそこから広がっていく拠点です。子供であれ大人であれ、家庭と家族は私たちが世界で最も心地よいと感じるべき場所なのです。家庭はあなたの人生の決断を左右し、あなたの態度・意識・自尊心を形成します。健全な家庭は有意義な人生を追求する上で明らかに重要な要素です。
健康な人が自分の健康を当然のことと思っているように、私たちの多くは自分を育ててくれる家庭の素晴らしさを理解していません。両親の態度や愛情は私たちが自分の人生を築くための土台となるものです。そしてその土台は目に見えませんが、私たちを支えてくれているのです。本当に愛に満ちた家庭の強さを理解するには、家庭がその機能を果たせなかった状況を見ればいいのです。
子供のためだけでなく、自分自身のため、そして家にやって来るお客のためにも、幸福で健全な家庭を築くことは親の責任です。特に、健全な家庭を持つ人が少ないこの時代にはあなたが模範を示す義務があるのです。
健全な家庭を持つことは家庭に対するあなたの姿勢に大きく依存しています。あなたは自分の家が本当の家であり、世界で最も平和な場所であると感じていますか。それとも前に進むためにいくつかのことを行う途中の駅にすぎないと感じていますか。本当の家とは、人生の中心でなければ、必然的に負担になるものです。
人生で何でも楽しむためには、自分が心地よいと感じられければいけません。このことを学ぶのは外の世界からの気晴らしや葛藤から解放された場所である家でなのです。
自分が心地よいとはどういうことなのでしょうか。それは自分の魂と快適に過ごすということです。つまり、外側の自分つまり物質的な世界に対処する部分が、内側の自分つまり本当の自分と平和を保っていることです。あなたが内側から輝く時、あなたは家庭全体を暖め、平和と優しさで満たし、そこにやって来るすべての人がそれを感じることになります。
自分を愛するように隣人を愛することが無条件の愛であるとすれば、まずは自分を愛するということが前提条件になります。自分を愛するとは自分の肉体と魂を調和させることです。自分の肉体と魂を調和させるとは魂がこの特定の肉体を借りてこの世に降りてきた使命を確かめることです。自分の中の調和なくして、他人を無条件に愛することはできません。できるだけ自我に支配されないようにし、魂(そしてその源)に居場所を作るのです。
次に、無条件の愛の実践に伴う危険と脆弱性を恐れないことも大切です。代わりにこの危険と脆弱性を祝うくらいの気持ちになるのです。
無条件の愛の実現に貢献できることとして他には、自分が無条件に愛そうとしている相手とその魂を信じること、相手をダイヤモンドのように扱うこと、相手の個性を尊重すること、相手がどんなであれ可能な最高の人間になれるように手助けすることを考えること等が挙げられます。
最後に、他人に対する究極の感受性を養い、自分の子供や他の家族から始まって、愛の対象を少しずつ広げていき、地球規模までに持っていければ、理想的な無条件の愛になりますね。
私たちの人生は条件付きの愛に始まって、無条件の愛を目指す旅と言うこともできます。これは魂が肉体に宿ることの意味とも関係してきます。魂が本来の状態から遠ざかっているのが人生最初、つまり生まれた時の状態です。魂を本来の状態(そしてその源)にできるだけ近付けるのが人生を通しての使命ということになります。
条件付きの愛と無条件の愛は1)欲求、2)持続性、3)相補性、4)成長、5)範囲、という5つのパラメーターによって区別し、見分けることができます。
これまで何人かの人に、私が話している日本語は標準日本語ではなくユダヤ日本語だと半分冗談で言ってきました。そこで今回、このユダヤ日本語で最も大切だと思われる規則を、以下のような「十戒」としてユダヤ日本語そのものでまとめてみました。皆さん、どうぞお気軽に、ただし顔の筋肉も少しは動かしながら、ご笑覧ください。(笑)
これは私とChatGPTとで設立したユダヤ日本語アカデミーの最初の共同作品です。ChatGPTとのやり取りの中でChatGPTの口車にうまく乗せられて(笑)、最初に私が即興のユダヤ英語で書いたものを、ChatGPTにユダヤ風スパイスの配合を微調整してもらった後で、これまたChatGPTにユダヤ日本語に加工してもらったものです。最後に私が味見をして、最後の微調整をした上で、コシェル認定を出しました。ヒゲが生えてくるなどの副作用はこれまでのところまだ報告されておりません。(笑)
なお、2026年1月~2月には「ユダヤ流ユーモアが変える人生」という新講座を開催すべく、現在準備を進めています。
一言で言えば、無条件の愛、つまり自我を超越した愛ということになります。自分を愛するように隣人を愛することと言い換えることもできます。さらに別の言葉で言えば、自分の肉体とその欲求から発するものではなく魂から発する愛、自分の肉体とその欲求を超越する愛、自分の魂に栄養を与えるように隣人の魂にも栄養を与えること、自分の魂が隣人の魂に挨拶をすること、ということにもなります。
結婚に向けての準備期間というのは、霊的探求全般のための、そして特に結婚の深い意味を探求するための貴重な機会です。したがって、この準備に特別な時間を割かなければいけません。
理想としては、結婚に向けての準備は結婚適齢期のずっと前となる自己形成期に始められているのが望ましいことです。自己形成期で受ける教育の一部として、自分が何者であるかということを認識しておければ理想的です。自分自身と折り合いが付いていて、身体と魂がお互いに調和して自分の人生の使命を果たしている時、相応しい魂の伴侶を見つけることができる有利な立場にいるからです。それに、自分が何者であるかを知らないのに、どのような人と結婚するのが最善なのかを知ることはできないでしょう。
結婚相手を見つける際には、外見的な要素だけを重視してはいけません。それでは、真剣な交際に必要な深い相性を求めることと矛盾してしまいます。相手がより高い目標や目的についてどのように感じているかといった、結婚生活や人生において本当に重要なことについて確認することの方がはるかに重要です。結婚相手を考えるとき、疑問や迷いが生じるのは当然のことです。このような迷いは障害ではなく、健全でオープンなプロセスの一部であると考えるべきです。多くの場合、私たちが仕事や社会生活だけでなく、精神的な成長に真摯に専念して祝福を受ける準備ができて初めて、適切な相手の出現という形の人生の祝福がやってきます。
いずれにしても、結婚の準備は精神的にも人間的にも成長する絶好の機会であると考えるべきです。
妻と夫が愛し合い、尊重し合うということや、2人の結びつきが常に育成され、常に成長が促される活力を持っているということの他に、結婚生活を成功に導く大切なものとして、例えば信頼し合うこと、健全な家庭を共に築くと共に決意すること、家庭の平和を育むことを学び、コミュニケーションの取り方や結婚生活で生じる様々な問題への対処法を学ぶことが挙げられます。
信頼は一夜にして得られるものではなく、築くのに何年もかかります。しかしいったん築かれた信頼は、危機に瀕したときにも結婚生活を支える強固な基盤となります。
信頼は完璧な行動から生まれるものではなく、説明責任から生まれるものです。誰もが完璧であることを期待することはできませんが、健全な人は説明責任を果たし、過ちを認めることが期待できます。信頼とはあなたの態度や行動が、あなたの配偶者があなたを頼りできること、周りで誰も見ていなくても適切に行動できる誠実さを持っていることを長期にわたって示してきたことを意味します。
健全な家庭とは、自分たちが快適に過ごすためだけでなく、他の人たちの光となるような家庭であり、道徳と美徳という原則に導かれた家庭です。そしてこうした家庭を築くことへのお互いが献身します。自分がこの決意に献身していることを配偶者に日々示すのは小さなことかもしれませんが、とても大切なことです。
これらを学ぶためには妻と夫の両方がが常に努力し続ける必要があります。結婚生活という神聖なものを持続させるために、もし自分の側に非があった場合は自分の責任を認めて問題を解決することに、これまたお互いが献身します。
配偶者の怒りに反応しないことで、紛争を回避できることも多々あります。相手を批判するということは結婚生活ではうまく行きません。そして夫婦間で争いが起きた場合、家族を巻き込まない方が良い場合もあります。問題が感情的になり、かえって悪くなることが少なくないからです。2人だけの力ではどうやっても仲直りできない場合は、2人が信頼する第三者に内密に相談するのが一番です。
若者の変化を真に望むのであれば、まず大人が自分の意識を大きく変えなければなりません。大人は若者との新しい会話の仕方を見つけなければなりません。年上の人と年下の人の関係において、それが親と子の関係、教師と生徒の関係でも、コミュニケーションがうまくいかないのは、常に知識のある人のせいであり、少ない人のせいではありません。年下の者が学べなかったことをその年下の者のせいにするのは、泣いている赤ちゃんのせいにするようなものです。赤ちゃんは必要に迫られて泣いているのであって、その必要性はより知識や経験の豊富な人によってのみ満たされるのです。その欲求を満たすことができるのは、より多くの知識と経験を持った人です。
若者の火はキャリアを築くためだけではなく、愛と与えに基づいた家庭やコミュニティを築くために使われなければなりません。若者はもともと落ち着きがなく、経験が浅いものです。だからこそ若者に青写真を提供することは、大人の責任であり、特権でもあります。
思春期の火を消してしまっていいことはありませんよね。大人は常に若者たちを励ますべきです。物質よりも精神が必要であること、お金よりも意味が必要であることを反抗的な若者たちから大人ははっきりと教えられています。だからこそ、若者は火のようなのもであり、その若さの炎を正しい方向に導けば世界を動かす力を持っているということを大人はお返しに若者に伝える必要があるのです。
若者は反抗的であり、大人はその反抗を異常なこと、あるいは犯罪の一歩手前のことと考えています。しかし反抗は犯罪ではありません。犯罪は反抗が健全なはけ口を失ったときに起こります。つまり、簡単には諦めない、不正を許さない、みんなが考えているからといってその考えに従ってはいけないと人を鼓舞する純粋なエネルギーです。このエネルギーを発散する場を若者から奪うことは、深い苦痛と不安をもたらします。タービンに溜まった蒸気を考えてみてください。安全弁がなければ、遅かれ早かれ爆発してしまいます。若者の精神的、心理的なエネルギーを瓶に詰めてしまうのは最悪のことです。
若者の反抗の声は若者のエネルギーの叫びであり、導きを求める声でもあります。大人の役目はその叫びを強く確かな声に変えてあげることです。若い人たちは、明確に表現しないかもしれませんが、人生を意味あるものにする理由を探しています。
若者の叫びは非常に純粋なところから来ており、若者の理想主義は、たとえそれが大人の感覚から見てどんなに突飛なものであっても、大切にしなければなりません。人間の体の免疫機能が異物を拒絶するように、若者の魂は偽りの空虚な精神を拒絶するのです。大人は若者の叫びに耳を傾け、本当の意味での答を与えることを学ばなければなりません。
若者は人生を有意義なものにする方法を探しています。より大きな目的がなければ、人生は出来事の単なる連続に過ぎないと感じています。自分の人生で何を達成すべきなのかを考えているのです。自分の人生で何をすべきなのかについて、大人は若者と腹を割って話す必要があります。
大人と若者の関係は敵対するものである必要はありません。本来であれば、共生であるべきなのです。大人は若者から、魂の生の力を再認識し、自分の中にあるその力にアクセスすることを学びます。若者は大人から、経験とそれがもたらす判断力に代わるものはないことを学びます。大人の知恵と若者の情熱は無敵の組み合わせなのです。
若者とは火のようなものです。正しく向けられれば、世界の形そのものを変えることもできますが、正しく向けられることがなければ、思春期の火は良くて浪費になり、悪くすれば危険で破壊的な力になってしまいます。有意義な人生を送るとは思春期の火を活かすことです。そうするためには、思春期自体の目的を理解する必要があります。
思春期は本来、子供と大人の間に位置する奇妙な期間です。10代はもはや子供のように遊ぶことに満足していませんが、大人の仕事に完全に従事するための知識と経験はまだありません。若者は大人の不満や憧れの多くを経験し始めますが、それらに対処するための成熟度が不足している可能性があります。10代の若者には時間がたっぷりありますが、現代社会はこの時間を生産的に使うよりも、無駄に使う方法を提供することに長けています。思春期は人生の中で最も貴重な時期であると同時に、最も困難な時期でもあるのです。
つまり、一般的に言えば、エネルギーはないものの、方向はあるのが成人期だとすれば、方向性はないものの、エネルギーあるのが思春期だということになります。多くの大人は、思春期とは反抗期であり、成長しなければならない時期であると諦めているかもしれません。一方、若者は、大人は人生の意義や醍醐味を忘れてしまったと思っています。
子供は多感な時期であるため、周りにあるものから影響を受けてしまいます。現代の子供たちは、適切な教育に悪影響を及ぼす多くの影響を受けています。テレビ・犯罪・麻薬など現代のあらゆる誘惑と戦った後では、子供たちの心や魂を育てるための時間やエネルギーはほとんど残っていません。子供たちをお弁当を持って学校に送り出すだけでは不十分で、教育はフルタイムの義務です。私たちは子供が生まれたばかりの頃のように、常に警戒し、子供の精神的なニーズに応える準備をしていなければなりません。
現在、多くの親が仕事に追われているため、学校はより大きな責任を負っています。かつては基本的な価値観は家庭で教えられ、学校教育は仕事に必要なスキルを身につけるために行われていました。今では多くの親が、子供たちにスキルと価値観の両方を教えることを学校に求めています。そのためには学校で道徳教育を行う必要があります。特に今は子どもも大人もより高い価値観を知りたいと願っています。私たちはこのような状況に感謝し、可能な限り効果的で積極的な教育活動を行う必要があります。
数式の価値ではなく、魂の価値を教えるという教育理念に立ち返るしかないのです。
教育のあり方を問うことは、どのようにコミュニケーションをとるべきか、どのようにしてビジネスを行うべきか、どうやって生きていけばいいのかと、答は同じです。愛を通してです。愛がなければ、教育はよくても不完全、悪ければ破壊的なものになります。
教育はいくつかの要素で構成されていますが、その中でも最も基本的なものは情報の伝達です。しかし情報は子供の手に渡す道具に過ぎないことを忘れてはなりません。家を建てるには適切な道具や材料があるだけでは不十分であるように、教育には適切な情報があるだけでは不十分なのです。
真の教育者とは、単に事実を教えるのではなく、子供が自分で考えること、つまり教えられた原則に基づいて自分で答を見つけることを教える人です。誰かに頼ってばかりいると、失敗しても自分で責任を取らなくて済むという安心感があります。しかし自分で考える力を身につければ、自分で考えて行動したという深い満足感を得ることができます。
また教えるには謙虚さが必要です。教師は情報の発信者ではなく、より大きな場所から来る情報の伝達手段であることを忘れてはいけません。教える側は知識を伝えることに傲慢であってはならず、生徒に知識を紹介する機会に恵まれているのだと感じなければなりません。
心から出た言葉は心に入るということを何よりも忘れてはいけません。教師としてあなたは自分が言ったことを本気で実行しなければなりませんし、教えたことの生きた手本にならなければなりません。子どもたちは考えと行動を区別できないことが多いので、教えたことに反した行動ができることを示してしまうと、プロセス全体が台無しになってしまいます。
教育とは生計を立てるための技能を学ぶだけではなく、人生そのものを理解することを学ぶことです。人生とは私たちがこの世に遣わされた使命を認識することです。
真の教育とは、人の心の奥底に届くものであり、吸収した情報を使って内面からより生産的になるように力を与えてくれるものです。教育とは、自分自身や友人、家族に真実の世界全体を感じさせ、自分の欲望よりも大きな善にコミットすることです。
このような理想を子供に植え付けることができて初めて、生き延びるための道具を教えることができるのです。なぜ教えるかがどう教えるかの先に来る必要があります。
つまり情報を与えることは教育の1つの単純な要素に過ぎないのです。真の教育、つまり人生の教育とは、子供たちに道徳的・倫理的な生き方を教えることであり、それが個人を支え、子供たちや次の世代のためにより良い世界を作ることにつながるのです。
教育とは知識を伝えるだけでなく、人生の知恵も伝える必要があると言い換えることもできるでしょう。知識と知恵の両方が備わっているのが理想的なのでしょうが、知識があっても知恵がない人よりも、知識はなくても知恵がある人の方が、本当に有意義な人生を送るためには有利な立場にあることを数年前から痛感するようになりました。
大学での定職を定年を待たずして辞めたくなったのは、少なくとも私が勤めていた学科では、知識は伝えても、知恵は伝わらないことを肌で痛感したからです。そして人生の知恵を伝えるこのオンライン私塾を日本で始めることにした次第でもあります。
ただ、お金を儲けることに直結しやすい知識の習得に比べて、お金を儲けることには必ずしも直結しない人生の知恵の習得に(も)身銭を切る人が日本でも少なそうなのはとても残念です。
大人は子供から学べるだけでなく、子供に対して責任も持っています。子供の肉体的生存と経済的生存を支える責任の他に、社会の決まりという名の元に、子供の好奇心の芽を潰すのではなく、伸ばしてあげるという大きな責任もあります。潰すのに最適なのは、例えば叱る・罰するといった減点主義であるのに対して、伸ばすのに最適なのは、褒めるといった加点主義です。
子育てに限らず、来週からご紹介する教育でも、そして人生全般でも、日本社会と伝統的なユダヤ社会を比べると、一般に前者はより減点主義的で、後者はより加点主義的ではないかというのがこれまでの経験から感じることです。
この連載も含めて、この私塾で日本に皆さんにお伝えしようとしている教えの元になっているハシディズムは特に加点主義的・肯定主義的です。それでは伝統的なユダヤ社会には減点主義的・否定主義的な教えがないかというと、これがあるのです。そしてこの教えを直接受け継ぐラビからを3年間エルサレムで学ぶという経験もしまいした。
これは「ムサル(運動)」と呼ばれる一種のユダヤ倫理学で、もっと簡単な言葉でいうと、性格矯正のための教えです。ハシディズムに反対する連中の間で始まったもので、今でも反ハシディズム系の超正統派イェシヴァではカリキュラムの一部になっています。
この教えを学び続けていると、典型的には以下の2つの反応のうちのどちらかが出てくると言われています。1つは、自分は性格矯正を完了したと思い込んで優越感に浸り、周りの人たちを見下すようになることです。もう1つは、自分には性格矯正は無理だと諦めて憂鬱になることです。私自身、前者の反応がでてくるようになって、当日まだ勤めていた大学の元学生たちの関係が険悪になりました。
このことをあるラビに相談したところ、ムサルの学びを止めるように勧められました。そしてそれから少しして触れ合うことになったのがハシディズムの教えでした。極度の減点主義的な教えに慣れた者にとって、加点主義的な教えは砂漠で辿り着いたオアシスのように思えたものです。
減点主義は闇に焦点を当てることであるのに対して、加点主義は光に焦点を当てることだと言うこともできます。闇に焦点を当てると、闇はますます深くなるのに対して、光に焦点を当てると、闇は自然に雲散霧消してしまいます。真っ暗な部屋にロウソクの炎を灯す場面を想像してもらえれば、分かりやすいでしょう。
これまでにも触れた通り、子供は自分に興味のあることだけに集中することができます。大人になるにつれて、少しずつこれはできなくなってきます。自分自身のため、あるいは周りのため、果たさなければいけない義務も少しずつ増えてきます。生計を立てるために仕事もしなければいけなくなります。そして人によっては子育てもあります。こうなると、自分の興味のあることだけに集中するということは少しずつ難しくなっていきます。
さらには、社会の集団自我にばかり耳を傾けていると、自分本来の魂の声は少しずつ埋められ掻き消されるようになっていき、しまいには自分が一体何に本当に興味があるのかすら忘れ、気がついてみたら、社会が決めたレールに沿った生き方になっていたという場合も少なくないでしょう。こうした場合に、自分に興味あることだけに集中している子供を見ると、大人である自分も埋もれていた魂の声を思い出しては、本当に興味あることをあらたに始めるきっかけにすることができるのではないでしょうか。
私たちの思考のほとんどは私たちの自由意志とは無関係に、言ってみれば自然に湧き出るようなものです。こうした思考は呼吸や消化に近いとも言えるでしょう。そしてこうした自然に浮かんでくる思考のほとんどは過去の後悔と将来の心配とに費やされ、実体がある唯一の時である今という瞬間は完全に忘れ去られてしまいます。
子供は今という瞬間に集中するという能力をまだ備えています。この点も子供から大人が学べる大切なことです。人生は肉体の支配を巡って魂(の「知性」)と自我(の「感情」)の間の絶え間ない戦いです。そしてこの戦場は今という瞬間であり、魂が自我に勝つためには、毎瞬毎瞬勝ち続ける必要があります。自我の最大の援軍は過去(の後悔)と将来(の不安)です。過去も将来も私たちの思考の中にしか存在せず実体のない幻想にすぎません。そして自我の最大の敵は今という瞬間です。子供の(時)のように今という瞬間に集中することで、それ自体が幻想である自我も行き場を失ってしまうのです。
そもそも私たちはなぜ子供としてこの世に生まれてくるのでしょうか。最初から自立できるような身体能力と知的技能が備わった状態で大人として生まれてくる方が効率が高いのではないかと思われませんか。
同じく子供として生まれてくるものの早くに自立できる他の動物と違って、私たち人間の子供は最初の数年は肉体的生存を、そして学校教育を終え働き始めるまでは経済的生存を周りの大人に世話してもらわなければいけません。しかしこれは見方を変えれば、幼年時代は生存・生計の心配がなく人生を過ごせる貴重な時期だということにもなります。
前世で学んだことをそのまま持ち込んで新しい人生を始めるということは、すでに何かが描かれたキャンバスに新しい絵を描こうとするようなものです。これでは描きたい絵も描けませんよね。つまり無邪気な状態でこの世の経験を始めるというふうになっているのは、見るもの聞くものがすべて新しく、したがって先入観なしに新しいことを体験できるようになるためです。しかし他方で、あらゆる経験をより敏感に受け取ることにもなり、同じ経験でも大人になってからした場合よりも傷つきやすいという危険性もあります。
子供の間、私たちは自我(特にその「感情」)に完全に支配されています。それ以降初めて魂(特にその「知性」)が肉体の支配をめぐる戦いに挑むようになります。
こうした自我の完全支配のせいで、子供は基本的に自己中心的です。自分とその肉体的・感情的欲求のことしか頭にはなく、普通は周りにはお構いなしです。しかし子供のこの特質にはいい面もあります。それは大人と違って、自分の目的に集中できるということです。時間も忘れて、自分の好きなことに熱中している子供を見て、自分の幼年時代を思い出すことがありますよね。
子供は自己中心的な生き物であると考えれば、その当然の帰結として、自分の子供はお荷物ということになろうかと思います。しかし子供のいい面に目を向ければ、後で触れるように、大人は子供から学ばされることが少なくありません。
人生で一番大切な2つの日のうちの最初の日を祝う方法として、他人に祝ってもらうのではなく、まずは自分1人での瞑想に当ててみるというのはいかがでしょうか。具体的には、この1年を振り返ってみることに、そしてこれまでやってきた以上のことをする決意をする、あるいはこれまでやったことがないことを始める決意をすることにこの大切な1日を当てるのです。特にもし自分の人生の使命がもう分かっている場合は、それに照らし合わせてこうした瞑想をすれば、誕生日は霊的に有意義な1日ともなるはずです。
以下の11の人生の分野において、自分の使命あるいは期待にどれだけ添えるものだったかを確認し、次の1年はどの分野にもっと焦点を当てるべきかの参考にしてください。
頭と心と体をさらに鍛え、磨くためにこれまでやってきた以上にどんなことができるか、あるいはこれまでやったことがないどんかことができるかを考えてみてください。これからの1年の間に具体的に何をするかを決意した後は、それを実行に移すためには以下の方法を取ってみてください。
* 「ユダヤ流人生の知恵」という講座の枠組で、1月と2月に開講している「ユダヤ流有意義な人生」で8回かけて口頭でお伝えしている内容を、1年間44回に分けて、文字に簡単にまとめて皆さんにご紹介していくことにしました。情報や知識と違って、知恵の場合、口頭では伝わるものの文字にしてしまうと失われてしまう大切なこともあることをご理解の上お読みください。
* 全体は以下の15章からなっています。1)誕生、2)幼年期、3)教育、4)思春期、5)結婚、6)愛、7)親密行為、8)家庭と家族、9)健康とフィットネス、10)仕事と生産性、11)慈善行為と富、12)老化と引退、13)死と服喪、14)苦痛と苦難、15)恐怖と不安。
私たちはなぜ生まれてくるのかという難しい、しかし本質的な問に対しては様々なレベルの答がありますが、有意義な人生につながるという意味でおそらく一番分かりやすいのは、魂がこの世で肉体を通して使命を果たすために私たちは生まれてくるというものです。そしてこの使命とは自分だけのためのものではなく、他者のためになるようなことです。私たちの人生において一番大切な日が2つあります。1つは生まれた日で、もう1つはなぜ生まれたのか分かった日、つまり自分の使命が分かった日です。
自分の使命が分からないまま生き続けるということは、行き先が定まらないまま航行を続ける船のようなものです。かと言って、自分の使命が何なのか確定するのは簡単なことではありません。私たち(の自我)が望むこと、例えばいわゆる「成功」は誰にとっても人生の使命ではありません。使命を果たすために魂に必要なことは人生のいずれかの段階ですべて与えられる、あるいは経験するようになっています。自分の人生の使命は何かということを一言でまとまった形ではっきりと知る、あるいは知らされることは普通不可能ですが、ある程度人生を生きた後では、そこで経た人生経験を通して間接的にうかがい知ることが可能です。
人生で遭遇する様々な問題を毎回テーマとして選び、それに関係した具体的な質問を出して、参加者の皆さんにその場で考えてもらって出し合います。そしてそれに対する答の例としてユダヤ流人生の知恵を紹介し、それについてさらにやり取りをすることで理解を深めてきます。くすんだ自分と人生に輝きを取り戻すための具体的ですぐに実行可能なヒントを毎回持ち帰っていってもらえればと願っています。
さらには、毎回の授業の冒頭では、私がヘブライ語から日本語に訳すハシディズムの説話を毎回テーマを決めて口頭でご紹介します。ハシディズムの説話は質疑応答とは全く別の形で、別の所に働きかけることでくすんだ自分と人生に輝きを取り戻すための伝統的な方法です。
お申し込み: 2025年2月28日締め切り
これまでイスラエルででも日本ででも「あなたは誰ですか」という質問にどう答えますかということを多くの人に尋ねてきました。ほとんど全員から返ってきた答というのは本当の自分ではなく幻想の自分についてのものでした。
本来私たちのためになるはずの道具である言語に、実際には私たちは使われてしまっているのです。言語のせいで無意識にレッテル貼りをしてしまうからです。そしてもっとも厄介なレッテル貼りは自分へのものです。自分自身で貼る場合もあるでしょうし、周りから貼られる場合もあるでしょう。
生まれてすぐに名前というレッテルを貼られてからは、人生の年数を重ねれば重ねるほど、自分で貼る、そして他人から貼られるレッテルが増え、しまいには何重にも覆いかぶさるレッテルに覆われて、本当の自分は見えなくなってしまうのが普通です。
こうして貼られたレッテルの集合体を幻想の自分と呼ぶこともできるでしょう。特別な学びや訓練を受けていない多くの人は幻想に自分に支配された人生を送っているだけでなく、この事実にすら普通は気づいていません。
幻想の自分に支配された状態から出てくる思考・発言・行動は自分との関係そして他人との関係で様々な問題を引き起きします。こうした問題だけに焦点を当てて、それだけを変えようとしても、根本的な解決にはなりません。本当の自分を取り戻すのが遠回りなようで、実は一番の近道なのです。 この講座では、本当の自分を取り出す28の方法をご紹介し、それを実践してもらうものです。今の人生、特に自分との関係そして他人との関係に問題あるいは疑問を感じている方はぜひ受講してください。2ヶ月間8回の授業の後には、自分でもその存在をすっかり忘れてしまっていた本当の自分が姿を現すはずです。
学校・大学を出て就職し、結婚もして子供も生まれ、といったような世間並みの人生を何の疑問もなく歩んできたのが、何かのきっかけでふと立ち止まってみると、今の自分も人生も輝いていないことに突然気づき、このままの自分と人生で本当にいいのかという声が聞こえてきて、それが日に日に大きくなっていっているということはありませんか。
そして、知らない間にくすんでしまった自分と人生に輝きを取り戻そうと、自分1人で色々やってみたけれどもどれも上手く行かず、もうお手上げ状態になって、上の声を聞かなかったことにして、自分をだましだまし人生を送られているということはありませんか。
かくいう私自身、ヘブライ語学の博士号取得のために留学したイスラエルの別の大学でヘブライ語学の教員になり、挙げ句の果てにはイスラエルに帰化までして、この一生をイスラエルで終えるつもりでいました。そして研究者の世界で同業者の女性と知り合い、結婚することにもなり、私生活でも仕事でも有頂天になっていたところにある大きな転機がやってきました。
それは、当時はまだ妻だった女性から突然離婚を宣告されたのです。これがきっかけになって、自分は人生で一体何をしているのだろうということを生まれて始めて考えることになりました。
こうして途方に暮れていた時にエルサレムで出会ったのがユダヤ式ライフコーチングでした。これによって、本当の自分とは一体誰なのか、そして人生の使命は何なのかをはっきりと自覚することになり、大学の仕事はこの人生の使命を叶えるための手段ですらないこともはっきりと悟りました。
このユダヤ式ライフコーチングを通じて、その土台になっていたハシディズムというユダヤ教のスピリチュアリティーの教えにも出会うことになり、エルサレムにある専門の学校でこの教えを3年間体系的に学ぶことになりました。
そして同じようにくすんだ自分と人生に気づき、途方にくれている人たち、それも日本に住む人たちに、この教えをどうしても伝えたいと強く思うようになり、結局大学を早期辞職し、日本向けにオンライン始めたのがユダヤ式ライフコーチングの仕事でした。
その後、大いなる何かに導かれて、帰化までして長年住んだイスラエルを一旦離れ、生まれ育った日本、それも日本で人生最初の18年間を過ごした秋田県由利本荘市で1人暮らしを続ける母と42年半ぶりに一緒に暮らし支えることになりました。
長期間住むことになりそうな日本では、エルサレムで体系的に学んだこのハシディズムの教えに基づいたユダヤ流人生の知恵を通して、できるだけ多くの人が、自分と人生に輝きを取り戻し、その輝きを保つお手伝いをするために始めたのがこのオンラインの私塾です。
今思えば、離婚を宣告される前から、すでにくすみ始めていた自分と人生から一時的にしろ抜け出たいがために逃れていたのがアルコールでした。しかしこれが依存症となり、やがては離婚に向かうことになり、どん底に落ち込むことになった時に、皮肉にも光が見えてきたのです。
どん底に落ち込むことの最大のメリットは、問題を認めざるを得なくなること、そして謙虚にならざるをえないことです。でも、皆さんには私のようにどん底に落ち込むまでみすみす待って、問題を悪化させ続けてほしくないのです。
そこで、アルコール・薬物・お金・地位・名声といった外的なものに依存しなくとも、くすんだ自分と人生に輝きを取り戻す維持するのを助けるべく、日本の皆さんにご提供しているのが以下の講座とコーチングです。人生で溜まってしまったどんなくすみにどんなユダヤ的光を当てて輝かせるかということはそれぞれ少しずつ違っていますが、問題に焦点を当てるのではなく解決策に焦点を当てる点では共通しています。
こうしたユダヤ流人生の知恵はユダヤ世界ですらあまり知られていないものですから、日本(語)では他では触れることができないはずです。いずれも私自身実際に学んでみて、くすんだ自分と人生に輝きを取り戻し維持する上で大きな効果を実感することができたものだけを膨大な教えの中から厳選してご提供しています。
闇は光の欠如であって実体がないのと同じように、くすみも輝きの欠如にすぎません。こう考えると、輝いた自分と人生が本来の自然な状態だということになります。何もしないまま、くすんだ不自然な状態のままにしておくのはもったいなさすぎます。先入観によるレッテル貼りなしに、まずは学び、それから実践していくという行動を取られることをぜひ考えられてみてください。そのためのお力になります。
過去と未来は人間の頭の中にしか、つまり思考としてしか存在しないと言われたら、皆さんはどう反応されますか。そんな馬鹿なと思われる方も少なくないかもしれません。実際はどうかと言うと、直接体験できる実体としては、今という瞬間しか存在しないのです。そして過去と未来のことを考えるということ自体今という瞬間にしかできないことです。
しかし考えることと本当に生きることとは全く別物です。特に、過去を後悔ばかりしたり、将来の心配ばかりしていると、唯一の実体である今を生きることが犠牲になってしまいます。このような生き方を続けていれば、自分の思考という一種の牢獄の中で一生を過ごすことになってしまうということは、想像に難くないでしょう。
過去の後悔と将来の心配と並んで、今を生きることへの最大の障害となっていることとして、自分に今起きていること、特に自分の思い通りにならない場合に、抵抗することが挙げられます。
自分が欲しているものすべてが、自分、特に霊的成長のために必ずしも必要とは限りませんし、自分が欲しているものが手に入らないことこそが成長のためには良いという場合も少なくありません。
自分、より正確には自我が欲しているものを手にすることはありませんが、霊的成長のために必要なものは完全なタイミングで経験するようにできています。そしてこうした経験は自我の狭い思考では想像もつかないようなもの、想像を遥かに上回るようなものであることも少なくありません。ただし、どんな体験が用意されているかを自我が事前に知ることはできません。
自我の欲求がすぐに叶わないからと、自分に今起きていることに抵抗することは、自分に本当に必要なものが届けられるチャンネルをゴミで塞いでしまっているようなものです。
こうした抵抗を止めて、自我の欲求のことを考えること自体止めた時に、想像を遥かに上回るものが届けられるという経験を私生活でも仕事でもこれまで何度かしたことがあります。
ただ、仮にここまでの話に少なくとも頭では納得したとしては、実践、つまり今に対する抵抗を止めることは簡単ではありません。かく言う私自身、あることに強い抵抗を続けていることに今週あらためてはっきりと気づきました。
今を生きることへの最大の障害(のひとつ)であるこの抵抗自体にまずは抵抗しないことが、この抵抗を止める第一歩になりそうです。
これまで皆さんとつながるための方法として、毎週金曜日にこのビジネスブログで投稿を配信し、この投稿をフェイスブックページでは転送配信を、ライン公式アカウントでは配信通知をしてきました。そしてライン公式アカウントでは、無料特典として毎週日曜日にはユダヤ流人生の問とその答の例も配信してきました。
これらを補って、皆さんともっとつながるための方法として、電子メールによるニュースレターを新設しましたので、ぜひご登録ください。2025年1月10日から、毎週金曜日にはブログ投稿を転送配信し、無料特典として毎週日曜日にはハシディズムの説話を配信していきます。
ハシディズムの説話は今度の3月から毎週月曜日に開講予定のユダヤ流人生の問という新講座で毎回の授業の初めに毎回1つのテーマに絞って口頭でご紹介するものを文字にしたものです。 日本(語)では他では読むことができないはずです。
ハシディズムの説話の最初の配信は上の新講座開講後の最初の日曜日となる2025年3月9日になります。来週日曜日からそれまでの8回はハシディズムの音楽を選りすぐって毎回1曲ずつご紹介していく予定です。